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明禅

提供: 新纂浄土宗大辞典

みょうぜん/明禅

仁安元年(一一六六)—仁治三年(一二四二)五月二日。鎌倉時代の天台僧で毘沙門堂別当。参議藤原成頼の子。顕密兼学の学匠で、とくに天台顕教では鎌倉初期を代表する一人。智海顕教を学び、建久六年(一一九五)北京三会講師、建保六年(一二一八)法勝寺御八講の証義を勤める。延暦寺探題にも任じられ、この時期の天台教学の実力者として名を馳せた。明禅を祖とする毘沙門堂流は中世天台の有力流派となる。台密は法曼流仙雲に灌頂を受け、梶井門主承円の修法伴僧を勤めることが多かった。毘沙門堂は平親範ちかのり(想蓮房円智)の創建になるが、別当仙雲没後、親範が明禅を後継に任命したことに対し、親範の弟澄真が異を唱え相論となる。承元四年(一二一〇)宣陽門院庁の裁決で明禅が別当となる。官位は法印大僧都まですすむ。承久の乱前に別当を辞し顕密活動から身を引く。籠居後は法蓮房信空に『選択集』を学び、『述懐鈔』を著し鑽仰した。このことから『明義進行集』や『四十八巻伝』には明禅の伝歴を載せ、承久の乱で但馬に流された雅成親王(後鳥羽院息)からの質問に対し、念仏肝要の文を注進したことなどを伝える。湛空善知識として没した。


【参考】菊地勇次郎「毘沙門堂と明禅」(『源空とその門下』法蔵館、一九八五)、善裕昭「毘沙門堂の別当職相論について」(多田孝正古稀記念『仏教と文化』山喜房仏書林、二〇〇八)


【参照項目】➡述懐鈔


【執筆者:善裕昭】