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広懺悔

提供: 新纂浄土宗大辞典

こうさんげ/広懺悔

善導往生礼讃』において六時礼讃の後に説示されている懺悔文。『広弘明集』二八(正蔵五二・三三〇中~五上)や『法苑珠林』八六「懺悔部」(正蔵五三・九一八中~九中)から、善導以前の中国仏教において、既に懺悔文を積極的に作成する風潮を見ることができる。また三階教文献にも様々な懺悔文があることから、「広懺悔」は善導当時の中国仏教を背景としていることが分かる。だからこそ善導は、道宣続高僧伝』二九では「又妄りに懺文を読み、悔法を行ずること有り」(正蔵五〇・七〇〇上)と説示している状況を憂いて、「広懺悔」を説示する前文において、「それ広とは実に心に生を願ずる者に就きて勧む」(浄全四・三七四上)と述べ、「広懺悔」の勧示を「心中に願生心を有する者」に限定する発言を行っている。この「広懺悔」は、①作罪の内容(十悪)の詳説、②作罪の無数と無辺について、③殺害と毀犯の無辺について、④罪の多少はただ仏のみが知見可能な内容であることの指摘、⑤これまでの作罪に対する実際の懺悔、⑥懺悔後の作罪の中止と阿弥陀仏への帰依という内容で構成されている。この内容は善導独自のものと見るよりも、おそらく三階教文献である『受八戒法』所収の懺悔文(西本照真『三階教の研究』五九六~五九九頁)や『七階仏名』所収の懺悔文矢吹慶輝三階教之研究』五一八~五一九頁)の影響を受けた上で成立したものと考えられる。ただし三階教文献所説の懺悔文では滅罪について仏性の存在とその作用を強調していることに対して、善導所説の「広懺悔」では仏性についてまったく言及することなく、あくまでも阿弥陀仏への帰依を主眼とした懺悔文となっている点に大きな特徴がある。


【参考】柴田泰山「善導『往生礼讃』所説の〈広懺悔〉について」(『大正大学綜合仏教研究所年報』二二・一〇九~一二三、二〇〇〇)


【参照項目】➡三懺悔


【執筆者:柴田泰山】