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不浄観

提供: 新纂浄土宗大辞典

ふじょうかん/不浄観

自他の肉体の不浄なありさまを観ずること。これによって、欲望の対象に対する貪りの心を除く。ⓈaśubhāsmṛtiⓅasubhānupassinなどの訳語にあたる。苦しみの原因が貪欲が多いことによると知り、これを克服、停止するために案出された修行法。五停心観ごじょうしんかんの一。人間の死屍しし変化する過程を九種に観察する九想観もこの観法の一種。釈尊の教えを伝える最古の経典、『スッタニパータ』には人体の臓器や生理の仕組みを述べたあと、身体の不浄なさまを「九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは眼やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。…人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている」と説き、このような事実を凝視しようとしない人間のありようを「自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者でなくて何だろう」と批判する。ところで身体は死後に腐り醜く変化し、放置されれば犬や野狐の啄むところとなる。釈尊弟子たちは死体の遺棄された墓地不浄観を実践したという。同じく経典は「〈かの死んだ身もこの生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう〉と、内にも外にも身体に対する欲を離れるべきである。この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した」と説いて身体への愛着を離れよと教えている。禅経である『坐禅三昧経』上(正蔵一五・二七一下)では婬欲多き人のためにこれを説く。アビダルマ論書の『婆沙論』四〇(正蔵二七・二〇五上~)、『清浄道論』(南伝六二・三五三~)に詳しい説明がある。『俱舎論』二二(正蔵二九・一一七中)などに不浄観と持息念(数息観すそくかん)を修行に入るための二つの要門とするのは、極めて具体性をもった修行法であることによろう。法然も『往生大要抄』(昭法全四八)に声聞乗は始め不浄・数息を観じ、終わりに四諦を観ずると述べる。


【参考】松濤誠達『仏教者たちはこうして修行した—わたくしの釈尊論』(『浄土選書』一六、浄土宗、一九九一)、大南龍昇「五停心観と五門禅」(関口真大編『仏教の実践原理』山喜房仏書林、一九七七)、中村元訳『ブッダのことば』(岩波書店、一九八四)


【参照項目】➡五停心観


【執筆者:大南龍昇】