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J3040 筑後善導寺誌要 善導寺編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0440A01: 同二年慶讃供養の式を行ふ寶曆元年藥師堂並に開山
J20_0440A02: 本廟を營修し翌年書院四間八間を造立す安永五年七月六
J20_0440A03: 日回祿の災にかかり本堂等延燒す四十八世愍海上人
J20_0440A04: 大殿再興の願を發し天明六年遂に其の功を畢ふ豐後
J20_0440A05: 臼杵領山崎英十郞棟梁として工事を督す十五間四面
J20_0440A06: にして規摸宏壯結構壯麗なり即ち現今の本堂是れな
J20_0440A07: り文政十年四月始めて當山に代官並に目代を置き井
J20_0440A08: 上源吾を代官に吉田重七を目代に任ず安政六年十月
J20_0440A09: 五十三世大慧上人三門四間六間を營建し又開山廟堂二間半四面
J20_0440A10: 其の他土藏四棟を建造す後維新の變革に際して寺領
J20_0440A11: を奉還し明治三年現境内の外悉く上地を命ぜられた
J20_0440A12: るを以て堂宇の修理住侶の資糧全く其の途を失し頓
J20_0440A13: に衰頽の極に達せり因りて境内の樹木を伐採して改
J20_0440A14: めて田畑となし保存の法を講ぜりと雖も遂に往時の
J20_0440A15: 盛觀を復するに由なし五十五世祐善上人三祖堂の朽
J20_0440A16: 敗を慨し廣く資 十方檀越に募り明治十一年三月之
J20_0440A17: を重建せり
J20_0440B18: 子院及び末寺
J20_0440B19: 當山創立當初は子院三十六坊あり然るに天正十二年
J20_0440B20: 以後漸く减じて寬永九年には二十四坊を有し後一百
J20_0440B21: 五十四年を經て天明年中には僅に十二坊となり現今
J20_0440B22: はただ七坊を存するのみ即ち上品院淨土院惠照院不
J20_0440B23: 斷院歡喜院威德院生蓮院是れなり又往昔九州に於け
J20_0440B24: る淨土宗寺院はすべて當山の末寺なりしが後漸く離
J20_0440B25: 反するものを生じ天正十二年頃は四百餘箇寺を存し
J20_0440B26: 寬永二年以後更に離末のものを出だし現今百五十餘
J20_0440B27: 箇寺を有す
J20_0440B28: 開山國師傳歷
J20_0440B29: 大紹正宗國師諱は辨長字は辨阿聖光房と號す應保二
J20_0440B30: 年五月六日を以て筑前國遠賀郡香月庄に生る彈正左
J20_0440B31: 衞門尉則茂入道順乘の息なり天性峻嶷にして平生の
J20_0440B32: 嬉戲群童に同じからず七歳の時州の菩提寺に入りて
J20_0440B33: 妙法師に就き九歳にして剃染し十四歳にして戒を受
J20_0440B34: く先づ唯心法師に從て天台の敎旨を學び後常寂法師

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