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J3000 江戸崎大念寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0301A01: 右の外もくさくさ持出候へとも寫えす候南光坊の事
J20_0301A02: 本成能能存居候故在府中承候所拔群の英衲無双の達
J20_0301A03: 德故中中國師抔可及義とは於某も不奉存候本成重て
J20_0301A04: の出府之節外狀其外進物の遺品等一見の約束申候
J20_0301A05: 右覺書の文は當山の記には無之雖然當寺之事故加
J20_0301A06: 入此所畢
J20_0301A07: 輪下正衆
J20_0301A08: ○法蓮社傳譽關徹上人は筑後國人安武の城主安武八
J20_0301A09: 郞藤原義久の三男なり九才にして同國瀨高寺に入剃
J20_0301A10: 髮受戒す穎惠同僚にこゆ十四才にして東關に遊學の
J20_0301A11: ため常州江戸崎大念寺に至り當山開祖慶岩上人に謁すこ
J20_0301A12: れ兩氏もと系族たりし故なり岩公其聽敏の性質聞思
J20_0301A13: の利速をよみし師のもとに到らしめ三縁山の國師なり修學の成
J20_0301A14: 滿を許容せしむ居事三年やがて兩貫主國師と慶岩上人の請牒
J20_0301A15: を傳へ花頂山主の執奏により香衣を賜り上人と號す
J20_0301A16: 是より國にかへり遠近を勸諭し眞宗の法門を説演せ
J20_0301A17: らる慶長十九年肥前國長崎の津に遊化す
J20_0301B18: 始蠻船の交易海舶は筑前國博多なり皆左道耶蘇宗門類
J20_0301B19: をひろめ衆をまとはす事海内にはびこれり關原御
J20_0301B20: 凱陣ののち當津に鎭臺を置たまひ萬の事を草創し
J20_0301B21: 給ふ寺院の建立にも及へり
J20_0301B22: 是より先當津に鎭臺を置せられ九國の地の左道をい
J20_0301B23: ましめ給ふ事おこそかなりといへとも民したがはす
J20_0301B24: して酷刑に行はるるもの甚多しまま隨ふものありと
J20_0301B25: いへどもひとり當津は夷人の館する所なれは蚩蚩た
J20_0301B26: る愚民かの邪宗を仰信し其こころはせを改め得さる
J20_0301B27: 者少からす官吏法をとりて其表を改めしむるも其裏
J20_0301B28: をさとすに便なし鎭令是を愁ふる事甚しかりしかと
J20_0301B29: いかんともすべきにあらすして年を過しぬ爰に上人
J20_0301B30: 德澤のきこえありて辨泉涌くが如し法誨を蒙るもの
J20_0301B31: 歸敬せすと云ふ事なし官令之れを聞て悅て招請し古
J20_0301B32: 街に道塲をまうけて中道院と名く其處に於て説敎せ
J20_0301B33: しめらる聽受歸投するもの其始は僅かに二三十人な
J20_0301B34: りしかど敎風頻に振ひしかは邪道おのづからふさが

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