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J2970 下谷幡隨院志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0233A01: 民欽奉暫時聞者重信踊躍猶受誓命或至有捨身
J20_0233A02: 往生者擧世曰稱往之切腹談義草創精藍亦號
J20_0233A03: 稱往院於今芳躅現在焉慶長十二年五月二十五日
J20_0233A04: 於當寺沐浴淨衣念佛坐逝
J20_0233A05: ○光蓮社心譽魯念龍牙は鎌倉人東條氏子十三才の時
J20_0233A06: 出家常蓮社禪譽弟子幡隨上人に隨從し附法慇重なり
J20_0233A07: しかは常隨給仕凡そ十餘年慶長年中西國中國より紀
J20_0233A08: 伊國和歌山まで隨來り師の命により同國湊の西岸寺
J20_0233A09: に暫く住務し元和五年の頃幡隨公鶴林の後大阪に至
J20_0233A10: り易往山西福寺を起立す今其地を上人町と云ふ同三
J20_0233A11: 年西寺町に移す慶安二年六月三日入寂八十三才
J20_0233A12: ○行蓮社往譽臺山越後國春日山人謙信給人の子なり
J20_0233A13: 幡隨上人當國勸化の時弟子となり下野國土井木邊に
J20_0233A14: 足利高基開基の菩提所ありとて廢絶せし大巖寺にて
J20_0233A15: 一夏法幢を立て大衆を領す學德無双なれは越後國高
J20_0233A16: 田長恩寺に住持す此時同所正受院永德寺と云へる古
J20_0233A17: 跡へ隱遁し彼の大巖寺の斷絶を歎息し彼寺の本尊彌
J20_0233B18: 陀は春日作尊氏卿守本尊なればそれを引護し當寺を中
J20_0233B19: 興し號を五臺山常住院大巖寺と改たむ後又同寺町の
J20_0233B20: 小庵に隱栖し寬永十年七月朔日歿
J20_0233B21: ○幡蓮社隨譽了達は幡隨上人の弟子として常隨給仕
J20_0233B22: 怠りなしかつて播磨國三木光明寺より伯耆國久米郡
J20_0233B23: 倉吉に來り隨縁山妙法院光明寺を開基し住む事三十
J20_0233B24: 餘年後又三木にかへり寬文九年九月八日淨念寺にて
J20_0233B25: 化す八十六才
J20_0233B26: ○等譽は京人同所正覺寺弟子幡隨上人に附隨受學す
J20_0233B27: 元和九年近江國草津佛國山地藏院正定寺を再興延寶
J20_0233B28: 四年十二月二日化
J20_0233B29: ○乘蓮社一譽到也は甲州の人田中村瑞蓮寺芳譽公木
J20_0233B30: 弟子幡隨上人の弟子となりて修學論義し又は隨身遊
J20_0233B31: 化す歸國の後慶長十八丑年成田村に往生山蓮乘院九
J20_0233B32: 品寺を再起す
J20_0233B33: 當寺は藤澤二世他阿上人開基の後中絶荒廢せしな
J20_0233B34:

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