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J2860 瓜連常福寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0793A01: 開山本山十二世尖譽朱梅上人慶長十五戌六月伊奈忠
J19_0793A02: 右衞門檀主として落成す
J19_0793A03: 同八田村太子山守現院一乘寺
J19_0793A04: 開山未詳正和二丑年艸創百五十餘年後寬正四未年證
J19_0793A05: 蓮社頓譽準觀上人再興今寺號に改爲末寺故に凖觀上
J19_0793A06: 人稱開山一世
J19_0793A07: 同郡垂村紫雲山阿彌陀院西方寺
J19_0793A08: 開山光蓮社榮譽源林上人永享頃同村鷲宮に開基六世
J19_0793A09: 日譽了感和尚本山九世退院後今地へ引移再興有之古
J19_0793A10: 往は末寺四ケ寺脇寺二ケ坊あり
J19_0793A11: 同上岩瀨村御城山東泉院誕生寺元改光明寺
J19_0793A12: 佐竹氏の庶流白石志摩守義元搆砦居住聖冏上人誕生
J19_0793A13: 之靈塲也其後冏師出塵舍弟義久爲南朝味方再築營
J19_0793A14: 小田大椽とともに勵功之處一族部垂修理亮下江戸式
J19_0793A15: 部少輔か爲に亡ひしかは應永中明譽了智上人來りて
J19_0793A16: 一宇となし師の遺像を安置し淨刹とせられし處廢絶
J19_0793A17: に及ひけれは永正八未年八月廿八日再ひ高明和尚興
J19_0793B18: 隆修行之處猶又衰廢し漸く草堂一宇を殘し築石城の
J19_0793B19: しるしもなく田農の地となりしかは寬文二年九月廿
J19_0793B20: 日本山十八世眞譽相閑上人深く是を歎き靈跡再建光
J19_0793B21: 明寺と名られしを元祿年中國主中納言光圀卿巡見の
J19_0793B22: 當時所以ある事を聞召し冏師の遺德を嘉稱して誕生
J19_0793B23: 寺と改號を命ぜられ七石餘の寺産を賜ふ今本堂七間
J19_0793B24: 四面東に一堂を建聖冏禪師の遺像安置す
J19_0793B25: 熟熟當寺の地形をみるに後に小河西より東に流れ
J19_0793B26: 北に小祠あり是岩瀨大明神歟杉樹數十株あれとも
J19_0793B27: 平地にて在家の中間にして城壘の古跡とみへす案
J19_0793B28: するに往古の城地は是より定めて西北の數里にあ
J19_0793B29: りしを此所の村民か請によつて引移さるものか但
J19_0793B30: し其頃の城は當時の如く嚴密にもあらさるものか
J19_0793B31: 此平田の中後の川を搦手の要害にたのみて數丁四
J19_0793B32: 方に鹿垣土塀をかまへ住居せられしにやいつれに
J19_0793B33: も田畑茅屋の中に交りて城跡とは見へされはここ
J19_0793B34: に記す

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