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J2810 華頂誌要 華頂山編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0198A01: の中心、緇素信仰の源泉となり、吉水草庵の古態に
J19_0198A02: 復するに至れり。加之數代の法主錫を飛して全國を
J19_0198A03: 遊化し、又常に布敎師を派して敎化に力めしかは、
J19_0198A04: 本末の親善日に厚きを加へ、一時困憊を極めし本院
J19_0198A05: の財政も、漸次整理せられ。明治三十六年には阿彌
J19_0198A06: 陀堂の新築に着手し、七年を閲して巍然たる兩堂相
J19_0198A07: 並ひて華頂の偉觀を呈するに至り、又四十年以降大
J19_0198A08: 殿諸堂の修繕を營み、燦然たる莊嚴を凝らして、四
J19_0198A09: 十四年開祖大師七百年の御忌を奉修せり。以上本院
J19_0198A10: 七百年間の沿革を略説し了る。
J19_0198A11: 第七 知恩院宮
J19_0198A12: 當院宮門跡の濫觴は、慶長の恢興に當り、皇室の歸
J19_0198A13: 仰、幕府の崇信日に厚きを加ふると共に、一宗統轄
J19_0198A14: の爲め首座を設くるの必要より起れり。即ち慶長十
J19_0198A15: 二年滿譽僧正職に在るの時、德川家康公志願ありて、
J19_0198A16: 本宗に宮門跡を開創し給はんことを奏請せしかは、
J19_0198A17: 後陽成天皇直ちに之を聽し、皇子八宮良輔親王時に四歳
J19_0198B18: を以て知恩院門主と定め給へり。家康公大に喜ひ、元
J19_0198B19: 和元年奏して猶子となし、爾後歷代之に准して將軍の猶子と爲る當院下段
J19_0198B20: の北部に宮室を設け、門領一千四十五石を附せり。
J19_0198B21: 親王元和五年九月十八歳にして入室得度あらせられ
J19_0198B22: 良純法親王と號す。戒師滿譽僧正なり。寬永二十年
J19_0198B23: 十一月故ありて甲州天目山に配せられ給ひしかは、
J19_0198B24: 後水尾天皇の皇子榮宮良賢親王德川家光公の猶子
J19_0198B25: として、明曆二年五月御入室あり。第二世に補し、
J19_0198B26: 尊光法親王と號す。
J19_0198B27: 其より以降、第三世尊統法親王は寶永四年六月、第
J19_0198B28: 四世尊胤法親王は享保十二年三月、第五世尊峯法親
J19_0198B29: 王は寶曆四年八月、第六世尊超法親王は文化七年九
J19_0198B30: 月、第七世尊秀法親王は萬延元年十二月を以て入室
J19_0198B31: 得度したまひ、連綿相續して慶應年間に及へり。
J19_0198B32: 然るに王政維新となるや、慶應三年十二月詔して諸
J19_0198B33: 宗の法親王を復飾せしめ給ひしかは、當院門主尊秀
J19_0198B34: 法親王も御復飾ありて、華頂宮博經親王と改稱し、

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