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J1420 和語灯録日講私記 義山・素中 画像

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巻_頁段行 本文
J09_0660A01: 云三界無安最可厭離三心私記上三丁要集上本卅五丁今此二字を題
J09_0660A02: し玉ふこと實に其意あるへし記主云若不厭而云厭
J09_0660A03: 琰王之責何爲若不欣而云欣聖衆之悲定增云云三心私記上之十丁
J09_0660A04: 扨て猒の字通作厭然れとも猒の字是也又禮阿の要
J09_0660A05: 略抄にも猒穢欣淨義を一篇立て玉ふ最も今と思合す
J09_0660A06: へし又厭を作猒也○沙門とは如常○了惠とは爰に
J09_0660A07: て宗派を沙汰すへし具には淨土要畧抄隨聞私考に記
J09_0660A08: す然るに了惠居住の遺跡不詳案するに大寺と見へ
J09_0660A09: たり望西樓なと有るか故に樓とは今の山門の樣なる
J09_0660A10: もの也三條悟眞寺とあれは今の三條川原より東三條
J09_0660A11: 通りより北の方なるへき歟今の三條の悟眞寺には非す是は新地なり又七條壬
J09_0660A12: 生のあたりにも住給ふ其處を華藏寺と云へり爾れと
J09_0660A13: もこれも遺跡不知華藏寺とは大經鈔慶長二十年板
J09_0660A14: 行の本の第一卷の奧書云正安二年庚子七月十三日於
J09_0660A15: 華藏寺拭老眼淸書之畢以此功德留贈後見
J09_0660A16: 信謗皆悉結往生縁矣望西樓沙門了慧謹疏右の本は
J09_0660A17: 洛陽七條寺内平井近江法橋良專開板慶長二十年乙卯
J09_0660B18: 夏上旬とあり又尊問愚答記も樓師の作也卷の終に華
J09_0660B19: 山院問華藏寺答とあり扨て此師の傳記古來無之故
J09_0660B20: に行狀等未詳近代正德年中開板全部八卷の本朝高
J09_0660B21: 僧傳粗載師傳又濃州加納盛德禪寺師蠻撰本朝高僧
J09_0660B22: 傳にも載之此書の奧に元亨元年七十九歳と云へり
J09_0660B23: 因之考るに元祖入滅三十年以後八十七代後嵯峨院
J09_0660B24: 寬元元癸卯年誕生なるへし惜哉入滅の年代を不知但
J09_0660B25: し遷化の日は廿九日是れ亦不知何月按するに鏑
J09_0660B26: 木光明寺の良求得此書建武四年の七月也元亨元年
J09_0660B27: より相去ること十六年也爾れは此師は八十有餘にし
J09_0660B28: て入滅し玉ふなるへし大經の鈔は此の師五十三歳永
J09_0660B29: 仁三年の述作也彼の跋に書之師滅後には謚廣濟和
J09_0660B30: 聖鬮賛七之十八丁血脉論卅二丁名義辨事一本二丁に引之○錄とは記也收拾也
J09_0660B31: 本朝高僧傳第十六十五丁云釋道光字了慧隨光明寺良
J09_0660B32: 忠禀淨土法爲其上首巡學諸方智辯縱逸甞
J09_0660B33: 入支那謁時名匠歸開悟眞弘專念法朝廷勅
J09_0660B34: 賜廣濟之號永仁正安間著無量壽經鈔語燈錄各

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