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アジア開教

提供: 新纂浄土宗大辞典

アジアかいきょう/アジア開教

明治期から昭和二〇年(一九四五)の間に行われたアジア各地での布教教化活動の総称。主に当時の、朝鮮、台湾、中華民国(清)、満州などに浄土宗僧侶が赴き活動を行った。内容は教育、社会福祉、医療などにも及んでいた。昭和一九年(一九四四)当時のアジア各地での寺院・教会所数は、台湾三七、朝鮮五六、満州二九、中華民国一九、南洋四であったが、第二次世界大戦終結とともに全てが閉鎖され活動を終了した。

台湾開教区

明治二八年(一八九五)六月に外征士卒慰問使として台湾に渡った林彦明は従軍兵への慰問法話追吊ついちょうなどを行いつつ開教計画を立案し、同年一〇月に佐藤大道、橋本定幢が渡台。翌年六月には仲谷徳念武田興仁が続き、事実上の台湾開教が開始された。武田は「明倫学校」設立を企画し、日本からの義捐金を得て同三〇年二月に煉瓦造りの建物が落成した。その後、日本の台湾統治や日本人居留者の増加にともない寺院・教会所数も増加した。台湾開教の特徴として、現地人への教化活動に比重を置いていた点が挙げられる。

朝鮮開教区

明治三〇年(一八九七)六月、釜山貿易商であった松前才助兄弟などの要請によって三隅田持門が釜山に渡ったのが朝鮮開教の端緒である。三隅田は浄土宗会所設置許可願を同地領事館に提出し、許可を得て教会所建設に着手。翌年一〇月には堀尾貫務岡本貫玉岩井智海道重信教などを迎えて慶讃式を行った。同三一年には韓国開教監督として初代白石尭海、二代堀尾貫務が任命されたが両者ともに国内から監督していた。同三三年に三代開教使長となった広安真随からは任地に渡って実際の指揮をとるようになった。朝鮮開教区では日本人教化とともに朝鮮の人々への教化開教方針としており、開教院の京城教会、開城教会所は朝鮮人教化の典型でもあった。また社会福祉事業の展開も同開教区の特色であった。

中華民国開教区満州国開教区

中国大陸での開教は、日露戦争直後の明治三八年(一九〇五)に開始された。当初は、清国開教区、ついで満州開教区(大正二年〔一九一三〕)、支那開教区(同八年)と名称を変え、満州国成立にともなって昭和八年(一九三三)に満州開教区中華民国開教区に区分された。明治三七年(一九〇四)に日露戦争の従軍布教使であった木付玄聖が、安東県と竜厳浦に教会所を設置する計画をたてたが機会を得ないままに終わった。翌年の第七期宗議会では開教区の新設が認められたが具体的な行動となるまでには時間がかかり、九月に最初の清国開教使として恒川現霊が任命された。これと前後して、福田闡正せんしょう、上野霊雄、阿部栄全、峯旗良充などが満鉄沿線を中心に単身で活動を行っていた。両開教区ともに現地人への教化活動よりも日本人居留者への活動に重きが置かれていた。

[南洋]

サイパンにおける布教は、昭和七年(一九三二)に青柳貫孝によって個人的に開始されたが、翌年一二月には加藤照山とともに南洋方面の布教使に任命されて、サイパン開教浄土宗の正式事業となった。同一〇年にはサイパン教会所(多宝山南洋寺)を開教本部にして開教活動を展開していた。南洋における活動は他の開教区に比べ資料が不足しており詳細は分かっていない。


【参考】柴田玄鳳編『浄土宗開教要覧』(浄土宗務所教学部、一九二九)、「浄土宗海外開教のあゆみ」編集委員会編『浄土宗海外開教のあゆみ』(浄土宗開教振興協会、一九九〇)


【参照項目】➡海外開教


【執筆者:江島尚俊】