死生観
提供: 新纂浄土宗大辞典
しせいかん/死生観
死と生とを不可分な命題として、思惟・思考する観念の体系。死はすべての生命に対して平等に訪れる現象である。生物は死に向かって存在しているのであり、死は生を意味づけ、生は死を意味づけている。そのことを深く自覚できるものが人間である。人間の営む文化の中でも宗教は、この死生観を基底において成立しており、死と生という人生の究極的課題に対する、根本的な解決を主たる機能とする。仏教は開祖たる釈尊が、「生老病死」に深く悩んだところから発祥してきた宗教と言えるが、キリスト教の教義もまたイエスの死と再生をその根幹に据えている。しかしながら、近代西欧の合理主義に基づいて成立した物質的価値に偏った戦後日本の思想状況は、長らく生と死を切り離し、生のみを価値あるものとして重視する傾向にあった。死を忘れた時代と言えるが、そのことが生き甲斐の喪失という精神的病理の因由ともなった。そのため現在では、生の意味の再発見や、より豊かな生の実現へ向けて、死を見つめ直し、考え直すべきであるという認識が高まっており、仏教の立場からも学問分野としての死生学の構築が提唱されている。ことに浄土教は明確な死後観念と他界表徴を保持しており、人びとが死生観の歴史を形成するにあたって多大な影響を及ぼしてきた。法然は『選択集』一六で「計れば、それ速かに生死を離れんと欲せば…選んで浄土門に入れ」(聖典三・一八五/昭法全三四七)と言い、浄土の法門の眼目は、迷いの生死を脱却することによって、真実の生を獲得することにあるとする。それは、往生浄土という死後の生に裏づけられた今を生きる、ということを意味する。その際、やはり往生の主体は何かが問われる。従来のように無我説による霊魂否定を主張するばかりではなく、自己存在としての霊魂の観念を仏教が現代社会に対していかに提示し得るかが模索されるべきであり、そこに浄土教の果たすべき役割が認められるのである。
【参考】島薗進他編『死生学』一~五(東京大学出版会、二〇〇八)
【執筆者:池見澄隆】