平安から鎌倉期にかけて、山城国(京都府相楽郡)にあった寺院。現在は廃寺。東大寺の念仏別所として発展した。東大寺東南院の三論宗系の僧を中心に、覚樹、実範、永観、静遍を始め、法然の弟子となった明遍が高野山に移る前に滞在した。最盛期には堂宇一二〇房があったと『翼賛』五一に伝えられる。
【参考】角田文衛「廃光明山寺の研究—蟹満寺釈迦如来像の傍証的研究—」(『考古学論叢』一、一九三六)、井上光貞『新訂日本浄土教成立史の研究』(山川出版社、一九七五)、坂上雅翁「光明山寺を中心とした南都浄土教の展開」(『関西国際大学研究紀要』九、二〇〇八)
【執筆者:坂上雅翁】