弘経寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ぐぎょうじ/弘経寺
一
茨城県取手市白山。大鹿山清浄院。「ぐきょうじ」とも呼ぶ。茨城教区№三一。応永二一年(一四一四)檀林飯沼弘経寺開山の良肇によって開かれた。初代から七代までは飯沼弘経寺の住職が兼ねていて新弘経寺と呼ばれ、関東三弘経寺の一つに数えられる。開基は大鹿左衛門という。天正一九年(一五九一)一一月に徳川家康から朱印地三〇石を賜る。家康はじめ一一代の将軍の朱印状を保存している。また、一〇世了学は増上寺一七世へとすすみ、一三世白誉は眼病の治療に尽力した。数度にわたり火災に見舞われるが、昭和四七年(一九七二)復興。現在は幼稚園・保育所を併設し、幼児教育にもあたっている。
【参考】『取手市史』社寺編(取手市、一九八八)
【執筆者:𠮷水成正】
二
茨城県常総市豊岡町。寿亀山天樹院。結城弘経寺と区別するために、通称飯沼弘経寺という。茨城教区№六七。関東十八檀林の一。室町時代に良肇が、横曽根城主羽生経貞の帰依をえて創建した寺。早くから関東の代表的な学問所として活躍した。戦国時代の天正三年(一五七五)九世存把のとき、当地の多賀谷氏の乱にまきこまれ焼失した。その後、弘経寺は結城に復興した。江戸時代初期には了学の活躍により、飯沼弘経寺が再興した。特に徳川家康の孫千姫(天樹院)は了学に帰依して五重相伝を受け、弘経寺を菩提所と決めて諸堂の再建に尽力した。それ以来この寺を天樹院弘経寺というようになった。什宝に天樹院関係のものが多い。特にその墓は有名である。
【資料】『飯沼弘経寺志』(浄全一九)
【参考】宇高良哲『関東浄土宗檀林古文書選』(東洋文化出版、一九八二)【図版】巻末付録
【参照項目】➡関東十八檀林
【執筆者:宇高良哲】
三
茨城県結城市大字結城。寿亀山楞厳院。飯沼弘経寺と区別するために、通称結城弘経寺という。茨城教区№七七。関東十八檀林の一。結城弘経寺は戦国時代に飯沼弘経寺が多賀谷氏の乱にまきこまれ、当時の住職団誉存把が結城に隠居したことにはじまる。その後文禄年間(一五九二—一五九六)に城主結城秀康の保護をうけて復興する。そのころ飯沼弘経寺も了学の手によって再興され、江戸時代に入ると、両寺とも檀林寺院として活躍する。同寺は現在も伽藍がよく残っており、檀林寺院の様相をよく伝えている。
【資料】『結城弘経寺志』(浄全二〇)
【参考】宇高良哲『関東浄土宗檀林古文書選』(東洋文化出版、一九八二)【図版】巻末付録
【執筆者:宇高良哲】