火葬
提供: 新纂浄土宗大辞典
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かそう/火葬
葬法の一つで、遺体を焼き遺った骨を拾って葬ること。他に葬法として、土葬・水葬・風葬などがある。仏教では火葬のことを荼毘といい、ブッダが入滅後、荼毘に付されたことは『大般涅槃経』などの小乗涅槃経類に記されている。『大般涅槃経』によると、入滅したブッダの遺体は、転輪聖王に倣って新しい布と綿によって包まれ、香料を含んだ薪によって荼毘に付された。マッラ族によって薪に点火されようとしたが着かず、弟子のマハーカッサパが到着し五〇〇人の比丘とともに礼拝し終わると、薪にひとりでに着火したという。ヒンドゥー文化では火葬の際に点火するのは嫡子の役割であることから、この説話は仏教教団にあってマハーカッサパが喪主であり法嗣であることを示しているとする説もある。この、ブッダが荼毘に付されたことが、東アジア、東南アジア、日本の仏教において、火葬が仏教の葬法であるとの位置づけにつながった。日本で最初に火葬が行われたのは、文献上では、『続日本紀』文武天皇四年(七〇〇)三月の条に、僧道昭の遺体が飛鳥の栗原で火葬されたとあるのが、そのはじまりとされている。その二年後には持統天皇が火葬された。そして仏教文化の浸透や薄葬の思想も関係し、皇族、貴族階級を中心として火葬の習俗が広まっていったと考えられている。江戸時代後期(文化年間)の民衆の生活様式を知ることのできる『諸国風俗問状答』からは、江戸時代後期には土葬と火葬が並列的に展開していた様子が分かる。火葬、土葬どちらの葬法が優勢であったのかは地域によってまちまちであったが、真宗が広く信仰されている地域では火葬が優勢である傾向がみられた。また同一地域であっても、階層や家格の違いによって、また疫病死の場合は火葬にするなど死に方によっても違いがみられることもあった。日本各地域での火葬は、とくに明治以降に増加していく。火葬率は、明治二九年(一八九六)には二六・八%であったが、昭和一五年(一九四〇)には五五・七%、同四五年には七九・二%へと増加し、現在ではほぼ百パーセントが火葬となっている。各地で火葬が受容された要因は様々であるが、明治三〇年(一八九七)、伝染病予防法により、法定伝染病による死者は火葬にすることが定められ、衛生的見地から火葬が全国的に普及することになった。また他の理由としては、地方自治体の法律によって土葬が禁止されたことや、埋める場所の不足、土葬の際の人手不足などが挙げられる。火葬され焼骨となった遺骨を、骨灰までも含めてすべて骨壺に入れて持ち帰る「全体拾骨(収骨とも)」の地域と、のどぼとけや頭骨などの一部のみ持ち帰る「一部拾骨」の地域に分かれ、「全体拾骨」は東日本・北日本が中心であるのに対し、西日本・南日本は「一部拾骨」との傾向がみられる。
【参考】林英一『近代火葬の民俗学』(『佛教大学研究叢書』九、佛教大学、二〇一〇)、入澤崇「ブッダはなぜ火葬されたのか」(『龍谷大学論集』四五七、龍谷学会、二〇〇一)、鯖田豊之『火葬の文化』(新潮社、一九九〇)、日本葬送文化学会編『火葬後拾骨の東と西』(日本経済評論社、二〇〇七)
【参照項目】➡土葬
【執筆者:名和清隆】