大田垣蓮月
提供: 新纂浄土宗大辞典
おおたがきれんげつ/大田垣蓮月
寛政三年(一七九一)一月八日─明治八年(一八七五)一二月一〇日。俗名は誠。幕末期の女流歌人。京都三本木に生まれ、実父は伊賀上野の城代家老藤堂良聖という。生後すぐに、知恩院宮門跡の坊官となった大田垣光古の養女となる。文化元年(一八〇四)に望古を、また文政二年(一八一九)に古肥を婿養子に迎えるが先立たれ、二人の夫との間に生まれた子も次々に夭折する。古肥が没した同六年、養父とともに知恩院六五世貞厳から剃髪式を受け、山内の真葛庵に住む。天保三年(一八三二)に養父が他界し、天涯孤独となった後は、岡崎村、方広寺大仏のそば、北白川心性寺等に、「屋越し蓮月」と言われるほど引っ越しを重ねたが、晩年は西賀茂の真言宗醍醐派神光院に住した。本格的に歌を始めたのは養父没後。香川景樹、六人部是香に学ぶ一方、小沢蘆庵に私淑したらしく、作風は清雅、平明で、叙景歌や自身の生活を詠んだものが多い。「円光大師の六百年の御忌に」と題する歌があり、家集に『海人の刈藻』(一八七一)がある。陶芸にも優れ、自詠歌を刻した作品が「蓮月焼」として愛好される。富岡鉄斎を猶子のように遇し、村上忠順、橘曙覧等と親交があった。
【参考】村上素道編『蓮月尼全集』(蓮月尼全集頒布会、一九二七)、杉本秀太郎『大田垣蓮月』(淡交社、一九七五)
【執筆者:坪井直子】