良快
提供: 新纂浄土宗大辞典
りょうかい/良快
文治元年(一一八五)九月一八日—仁治三年(一二四二)一二月一七日。妙香院、本覚院、飯室僧正と号す。九条兼実の第八子で、母は修理大夫頼輔の娘。尊忠の室に入り、慈円によって受法灌頂した。覚什と性舜から顕教を学んでいる。貞応二年(一二二三)に師の慈円から青蓮院を譲り受け、寛喜元年(一二二九)には天台座主に任ぜられる。また同三年には天王寺別当にも任ぜられている。しかし、貞永元年(一二三二)に天台座主を辞し、翌年には天王寺、青蓮院からも身を引き、文暦元年(一二三四)からは比叡山横川の飯室谷に籠居し、康楽寺において五八歳で入寂した。著作に『浅近念仏抄』があったというが伝えられていない。『四十八巻伝』一五には、その序の要点が抄録されている(聖典六・一八一〜三)。また、法然の伝記によれば、嘉禄の法難時に、信空らがこの良快を訪ね叡山僧徒らの動向や法然の遺骸の改葬について相談している(『古徳伝』九、『九巻伝』九上、『四十八巻伝』四二)。
【資料】『門葉記』一二八、『華頂要略』五之一、『尊卑分脈』(『新訂増補国史大系』五八・八八)、『翼賛』一五、五七
【参考】稲葉伸道「鎌倉期における青蓮院門跡の展開」(『名古屋大学文学部研究論集 史学』四九、二〇〇三)
【執筆者:市川定敬】