生没年不明。聖光の門弟修阿の弟子とされることからおそらくは一三世紀中頃の人。修阿が、止悪修善が即ち至誠心であるとの異義を唱え、これに対して同じく聖光の弟子の敬蓮社入阿が反論し、満願社は修阿と共に入阿に相対したという。この論争は聖光直々に真偽が示され、異義であるとされた修阿は聖光を恨み、満願社は長西の門弟となったと伝えられる。この事件が『授手印』執筆の要因となったとされる。
【資料】良忠『東宗要』四(浄全一一)、『疑問抄』上(聖典五)、『鎮流祖伝』三(浄全一七)
【参照項目】➡修阿、入阿一
【執筆者:郡嶋昭示】