等熈
提供: 新纂浄土宗大辞典
とうき/等熈
応永三年(一三九六)一一月—寛正三年(一四六二)六月一一日。字は僧任、諡号は仏立慧照国師。一条派隆盛期の僧、清浄華院一〇世。父を万里小路嗣房と伝え、九世定玄(万里小路仲房の子)を嗣いで、応永三〇年(一四二三)清浄華院一〇世となる。同三二年称光天皇の病悩を癒して有名となり、正長元年(一四二八)一〇月同天皇崩御後、万里小路時房、紀伊局らとともに如法念仏をつとめ冥福を祈った。万里小路家と浄華院は師檀関係が強まり、皇室、将軍家、公家との交渉も深まった。永享元年(一四二九)六月、後花園天皇から香衣綸旨を賜り、翌七月には応永災禍後の仏殿の上棟が成った。文安三年(一四四六)一月、一条派浄華院の黄金期を築いた等熈の寿像が画かれ、画中の賛文を時房が記した。没後の寛正三年八月一二日、浄土宗初の国師号「仏立慧照」が追諡された。墓は五世向阿証賢の入寂地・西光庵(京都市右京区花園宮ノ上町)にある。著書に『三部経直弁』『菩薩戒経直弁』などがある。
【資料】『清浄華院文書』(水野恭一郎・中井真孝編『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎出版、一九八〇)、『清浄華院誌要』(浄全二〇)
【参考】玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、中井真孝「中世の浄華院について」(『法然伝と浄土宗史の研究』思文閣出版、一九九四)、中野正明「中世浄華院史の一考察」(石上善應教授古稀記念論文集『仏教文化の基調と展開』山喜房仏書林、二〇〇一)
【執筆者:伊藤唯眞】