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即便往生・当得往生

提供: 新纂浄土宗大辞典

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そくべんおうじょう・とうとくおうじょう/即便往生・当得往生

西山派祖証空が依用した特殊名目。証空は即便往生当得往生の二種の往生があることを説く。即便往生とは平生安心の時に直ちに往生を証得することであり、当得往生とは臨終に至って、実際に肉体を捨てて極楽に至ることをいう。典拠は『観経』の「もし衆生あって、かの国に生ぜんと願ぜば、三種の心を発すべし。すなわち往生す(即便往生)。何等をか三とす…また三種の衆生あり、まさに往生を得べし(当得往生)。何等をか三とす」(聖典一・三〇五~六/浄全一・四六)の経文にもとづく。『観門要義鈔』に「即便往生は先ず弘願を思わえて説く。弘願に乗じぬれば、時節の久近を論ぜず。即ち生ずる故なり。当得往生観門の意なり。観門は必ず弘願に乗じ生ずべき故に当得と説くなり」(仏全五五・三一四下)と示されるように、即便往生とは「弘願を思わえて」説かれた往生であり、当得往生とは「観門の意」で説かれた往生である。しかも、この二つの往生は、平生・臨終の差別こそあっても、根本的には「一人の始終」であって、ただ一つの往生である。言いかえれば、平生の即便往生が、臨終に顕れたのが当得往生であって、二つの往生の体は別ではない。また顕意けんにの『浄土竹林鈔』によれば、即便往生とは法の立場、すなわち正因門の立場に立って、現世における仏体の摂取(救済)を意味し、当得往生とは機の立場、すなわち正行門の立場に立って、来世における仏体の摂取を意味していると述べている。この顕意の説を証空の著述に見ると、『観経疏他筆鈔』において、証空は特殊名目「正因正行」を依用して即便・当得を詳細に説明している。すなわち、我々は平生において正因即便往生を得て平等往生の果を得て、その上に臨終におけるよりよき当得往生の感報を目指した正行増進の宗教生活に精進するのである、という。ここでいう「正行増進の宗教生活」とは、本来は「浄土に生れてなすべきをかつがつ穢土にても習い修して悪をば退き善には進む」(西叢二・八上)宗教生活を意味している。このように即便・当得は一人の始終とはいうものの、証空教学の特色は即便往生の方にあると言えよう。これに対して、『決疑鈔』において良忠は「即とは不離の義なり。此れ往生の当果決定することを語う。是れ即時には非ず」(浄全七・二七〇下)といい、西山義の理解とは一線を画している。また浄土真宗では、即便往生を即往生と便往生とに分け、即往生とは他力回向信心を獲得した念仏者が真実報土往生することであり、便往生とは諸行往生の願往生人、および自力念仏の願往人が方便化土往生することであるという。


【参考】杉紫朗『西鎮教義概説』(龍谷大学出版部、一九二四)、廣川堯敏「即便・当得二種往生説について」(『浄土宗学研究』六、一九七二)


【執筆者:廣川堯敏】