廓山
提供: 新纂浄土宗大辞典
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かくざん/廓山
元亀三年(一五七二)—寛永二年(一六二五)八月二六日。定蓮社正誉。増上寺一三世。甲斐国八代郡市部村(山梨県笛吹市石和町市部)に武田信玄家臣高坂昌信の次男として生まれる。戦場で死骸を見て世の非情を感じ、国府尊躰寺(甲府市城東)に入り出家し、のちに増上寺円也、ついで存応に師事した。徳川家康の知遇を得た廓山は駿府(静岡市)に招かれ英長寺(現・来迎院、静岡市葵区横内町)に住したが、慶長一三年(一六〇八)同門了的とともに江戸城西丸で行われた日蓮宗との宗論にのぞみ勝利を収めた。その後も江戸と駿府を往来するが、同一八年家康の命により修学のため南都に派遣された。元和元年(一六一五)幕命によって浄土宗諸法度の草案を作成した廓山は、京都二条城に持参し、家康より同法度に朱印を賜っている。またこの頃家康は、生母於大の方(伝通院殿)菩提のために江戸小石川(東京都文京区小石川)に伝通院を建立し、廓山を開山として招請している。同六年師僧存応が亡くなると、了的との間に増上寺後住争いが起こるが、同八年台命により一三世の法灯を継承した。寛永二年八月二六日五四歳で遷化。
【資料】『三縁山志』九、『小石川伝通院志』(共に浄全一九)、『駿府記』(『史料雑纂』二、続群書類従完成会)
【参考】玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院、一九九九)、同「源誉存応門下における廓山と了的」(櫛田博士頌寿記念『高僧伝の研究』山喜房仏書林、一九七三)
【執筆者:福田行慈】