岡本貫玉
提供: 新纂浄土宗大辞典
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おかもとかんぎょく/岡本貫玉
文久元年(一八六一)六月二四日—昭和二三年(一九四八)三月一四日。清浄心院荘蓮社厳誉格阿裕堂。島根県簸川郡大津村(現・出雲市)に岡本彦八の四男として生まれる。慶応二年(一八六六)現在の松江市寺町誓願寺須山性誉に師事して得度。山口支校・西部大学林を経て、上京して浄土宗高等学院本科唯識部を卒業。黒田真洞、大鹿愍成に師事。明治二五年(一八九二)山口支校校長兼教授となる。以来同二九年浄土宗務所布教部長、同三六年宗議会議長、同四二年教学院議長、大正三年(一九一四)宗教制度調査会委員などの要職を歴任し、同五年浄土宗執綱(宗務総長)に就任。この間、明治三三年(一九〇〇)東京浅草清光寺二一世住職となる。大正九年(一九二〇)東京養老院の理事、昭和八年(一九三三)理事長となり、経営に尽瘁するところ多大であったが、同二二年養老院が藤沢に移転するときその職を辞した。同二〇年清光寺を退董して、法嗣貫瑩に住位を委ねたが、間もなく貫瑩病没にあって再董するとともに、戦災により灰燼に帰した自坊の復興に力を注いだ。世寿八七歳。
【参考】大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)
【執筆者:岡本圭示】