了的
提供: 新纂浄土宗大辞典
2018年3月30日 (金) 06:35時点における192.168.11.48 (トーク)による版
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りょうてき/了的
—寛永七年(一六三〇)九月一五日。伝蓮社桑誉。増上寺一四世。甲斐国の生まれで、姓は近藤氏。府中瑞泉寺(甲府市中央)で出家し、武蔵国上蓑長伝寺(さいたま市中央区本町東)に転じて存応の門下となった。文禄三年(一五九四)五重血脈と円頓戒を授かり常随の弟子となり、慶長八年(一六〇三)には小田原大蓮寺(神奈川県小田原市南町)に住し弟子の育成に努めた。同一三年江戸城で行われた日蓮宗との宗論では、同門廓山の介添えとして活躍し、元和二年(一六一六)京都金戒光明寺の二七世となり、後水尾天皇から紫衣被着の綸旨を賜っている。了的は存応門下の双璧廓山や吞龍らとともに宗政を任されていたが、存応は了的を最も重んじていたようで、遺言でも彼を後継者と定めていた。同六年存応が亡くなると、廓山が増上寺の法灯を継ぎ一三世となったが、寛永二年(一六二五)廓山没後幕命により一四世となり、教団の組織化に尽力した。同七年九月一五日遷化。
【資料】『三縁山志』九(浄全一九)、『黒谷誌要』(浄全二〇)
【参考】玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、宇高良哲「源誉存応門下における廓山と了的」(櫛田博士頌寿記念『高僧伝の研究』山喜房仏書林、一九七三)
【執筆者:福田行慈】