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訳経

提供: 新纂浄土宗大辞典

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やっきょう/訳経

経典を翻訳すること。おもにインドや西域で撰述・編纂された仏典を、漢語(中国語)に翻訳すること、また翻訳された経典(漢訳経典)のこと。最初期の訳経は、後漢桓帝の建和二年(一四八)に洛陽に来た安息国出身の安世高あんせいこうによる。安世高は建寧年間(一六八—一七二)にいたるまでの約二〇年間に、『安般守意経』『陰持入経』『七処三観経』『道地経』『人本欲生経』『十二門経』など、いわゆる小乗に属する経典を三四部四〇巻翻訳した。その訳文は「弁にして華やかならず、質にして野ならず」と評されたが、実際には漢語の語法を逸脱した訳文もふくまれ、かなり難読である。また同じく後漢桓帝の終わり頃に洛陽に入った、月氏国出身の支婁迦讖しるかせんは、霊帝の光和年間(一七八—一八四)から中平年間(一八四—一八九)にいたるまで、『道行般若経』『首楞厳しゅりょうごん経』『般舟三昧経』『阿闍世王経』『阿閦あしゅく仏国経』など、大乗に属する経典一四部二七巻を翻訳した。この両者は中国仏教史上における最初期の訳経僧であり、かれらの訳経は必ずしもたやすく読解できるものではないが、異なる文化圏の異なる思想を、異なる言語に転換・紹介した功績は大きく、安世高の訳語である仏・聞如是・祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおん比丘びく沙門地獄餓鬼畜生解脱や、支婁迦讖の訳語である三昧般若波羅蜜阿羅漢阿耨多羅三耶三菩提あのくたらさんやさんぼだいなどは、現在にいたるまで用いられている。その後、魏晋南北朝・隋・唐・五代・宋においてもインドや西域からの来華僧や在俗信者らにより、またはインドに遊学した中国僧などによって数多くの経典がもたらされ翻訳された。その訳経者の総数は二〇〇人を超え、漢訳された三蔵の数量も開元一八年(七三〇)に編纂された『開元釈教録』によると、三蔵および中国賢聖集を合して、一〇七六部五〇四八巻に達している。なお、魏晋の頃にはすでに訳経の文章に対する問題が起きていたことも重要である。これは直訳と意訳の問題であり、それを文質論争といい、およそ一〇世紀の頃まで懸案となっていた。主なものとしては、道安の「五失本三不易」(『摩訶鉢羅若波羅蜜経抄序』)、彦琮げんそうの「十条」と「八備」(『続高僧伝』二)、明則の「翻経儀式」(『唐高僧伝』一〇、靖玄伝の付伝)、撰者未詳の「翻経法式論一部十巻」(現存せず、『大唐内典録』五)、玄奘の「五種不翻」(『翻訳名義集』序)、賛寧の「六例」(『宋高僧伝』三)などをあげることができるが、結局は「文質彬彬ぶんしつひんぴん(直訳と意訳のバランスがとれた訳文)」が理想とされたのである。


【参考】常盤大定『後漢より宋斉に至る訳経総録』(東方文化学院東京研究所、一九三八)、中嶋隆蔵「仏教の受容と変容」(『仏教の東漸—東アジアの仏教思想Ⅰ』春秋社、一九九七)


【執筆者:齊藤隆信】