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栄西

提供: 新纂浄土宗大辞典

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えいさい/栄西

保延七年(一一四一)—建保三年(一二一五)。臨済宗黄竜派の僧。道号は明庵、千光法師、葉上房とも称す。備中国吉備津宮に生まれる。一四歳で出家し、比叡山密教と天台を学ぶ。二八歳の仁安三年(一一六八)に入宋、同年帰国した。筑前国誓願寺建立などに尽力し、密教関連の著作を書いた。文治三年(一一八七)四七歳で、天竺の仏跡参拝を計画して再び入宋するが、南宋政府の許可が下りず断念、天台山万年寺の虚庵懐敞えじょうの下で印可を得て、建久二年(一一九一)に帰朝した。禅の布教を始めるが、天台宗からの圧迫を被って同九年に『興禅護国論』を著し、正治元年(一一九九)鎌倉に下って、寿福寺を建立した。さらに京都に建仁寺を建立し、天台・真言・禅の三宗兼学の寺とした。建永元年(一二〇六)には東大寺大勧進職となり『喫茶養生ようじょう記』を著して、建保三年七五歳で寂。その禅は天台・密教との兼修を特徴として、密教でも葉上流ようじょうりゅうの祖とされる。


【参考】末木文美士編『中世禅籍叢刊一 栄西集』(臨川書店、二〇一二)、市川白弦他『原典日本仏教の思想一〇 明菴栄西・一休宗純』(岩波書店、一九九一)


【参照項目】➡興禅護国論


【執筆者:西村玲】