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「常福寺」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版

じょうふくじ/常福寺

茨城県那珂市瓜連うりづら。草地山蓮華院。茨城教区№四。関東十八檀林の一。常陸ひたち本寺として発展し、教学・宗政の中心となった。延文三年(一三五八)太田城主佐竹義敦を檀越として了実が創建した。嘉慶二年(一三八八)二世聖冏のとき類焼し、修行中の学僧が分散したが、応永一〇年(一四〇三)頃瓜連城址に移転再建した。宝徳四年(一四五二)後花園天皇の勅願所となり、天文一二年(一五四三)には後奈良天皇から勅額を賜った。慶長七年(一六〇二)には徳川家康から一〇〇石の朱印地をもらって経済的基盤を固め、その後は常陸の本寺として宗政に、檀林として教育に貢献した。所蔵する覚如の『拾遺古徳伝絵』九巻は国重要文化財に指定されている。この他に聖冏聖聡了暁存応などの書状、また徳川家康の朱印状など貴重な古文書が多数残っている。


【資料】『瓜連常福寺志』


【参考】宇高良哲『関東浄土宗檀林古文書選』(東洋文化出版、一九八二)【図版】巻末付録


【参照項目】➡関東十八檀林


【執筆者:宇高良哲】


長野県上田市下之条。田中山泰賢院全称庵。長野教区№一二九。開山は田中氏一族の明誉道公。洪水により堂宇全て流破したため、慶長五年(一六〇〇)上田城主真田信之が上田諏訪に移築して再興し、藩主菩提寺となる。その後、信之に代わって上田に入った仙石忠政が現在地に移した。万延年間(一八六〇—一八六一)の火災により堂宇を焼失し、今ある本堂は仮本堂


【資料】『蓮門精舎旧詞』二六(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【執筆者:山野井亮秀】