「六条尼御前」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ろくじょうあまごぜん/六条尼御前
一二世紀頃、生没年不明。法然門弟の円親の義母。「没後遺誡文」(『漢語灯録』一〇)の遺産分与に関する条文に、吉水東新房は円親が六条尼御前の養子となったときに六条の敷地と共に譲られたが、法然が管理することを許されていたので重ねて円親に譲ると記し、玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書(現・浄土宗蔵)の「源頼朝等交名」には「法然房源空」の前にその名を見る。『南無阿弥陀仏作善集』には、東大寺別所浄土堂にある丈六の一〇体の像のうちの九体は、重源が阿波国から堂と共に遷し、一体は六条尼御前の寄進で追加されたことを記す。『延慶本平家物語』六末三四の「阿波守宗親発道心事」には、平宗親の妹の一人で、出家して天王寺の理円房に住んでいた「建礼門院に六条殿とて候給いし女房」のことを記す。この六条殿が尼御前とすれば、宗親は屋島大臣(平宗盛)の末子であるが、実は養子で「花園左大臣殿の御末」であると記すことから、六条尼御前は花園左大臣源有仁の娘ということになる。
【資料】柴田実編『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』(玉桂寺、一九八一)、『南無阿弥陀仏作善集』(奈良国立文化財研究所研究史料一、真陽社、一九五五)、『延慶本平家物語』六(大東急記念文庫、一九八三)
【参考】五味文彦「阿波民部大夫と六条殿尼御前」(『日本歴史』四〇六、吉川弘文館、一九八二)、大橋俊雄「法然上人の『没後遺誡』に見える六条尼御前について」(『仏教論叢』三二、一九八八)
【執筆者:山本博子】