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提供: 新纂浄土宗大辞典

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二つのものの[[相対]]的対立を超えた、二者の絶対的[[平等]]を意味する語。Ⓢadvaya。二ではないというところに意味があり、いわゆる一元論ではなく、二者[[相対]]の矛盾のない和合・融合を説くところに力点を置いたものと考えることができる。[[大乗仏教]][[菩薩]]思想では智悲[[不二]]、[[自利]][[利他]][[不二]]が強調されて、二つながら、共々に等しく一体となったものという意味で使われる。有名な「維摩の一黙」のエピソードを導く『維摩経』の[[不二]]法門は、二者の対立を離れて、[[相対]]的差別を超えた絶対的[[平等]]の理念へと説き進めている。[[浄土教]]では仏・[[如来]]と[[凡夫]][[衆生]]との関係や機と法との関係を[[凡聖]][[不二]]([[凡聖]]一如)、[[機法]][[不二]]([[機法一体]])として説くことがある。たとえば[[聖冏]]は『鹿島[[問答]]』に「浄穢[[不二]][[凡聖]]一如」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0831 浄全一二・八三一上])と説き、「彼の三十二の[[菩薩]]の[[不二]]の法門すでにこれ真実の義にあらず」(同八三一下)などと『維摩経』の教説をめぐって判釈している。
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二つのものの[[相対]]的対立を超えた、二者の絶対的[[平等]]を意味する語。Ⓢadvaya。二ではないというところに意味があり、いわゆる一元論ではなく、二者[[相対]]の矛盾のない和合・融合を説くところに力点を置いたものと考えることができる。[[大乗仏教]][[菩薩]]思想では智悲[[不二]]、[[自利]][[利他]][[不二]]が強調されて、二つながら、共々に等しく一体となったものという意味で使われる。有名な「維摩の一黙」のエピソードを導く『維摩経』の[[不二]]法門は、二者の対立を離れて、[[相対]]的差別を超えた絶対的[[平等]]の理念へと説き進めている。[[浄土教]]では仏・[[如来]]と[[凡夫]][[衆生]]との関係や機と法との関係を[[凡聖]][[不二]]([[凡聖]]一如)、[[機法]][[不二]]([[機法一体]])として説くことがある。たとえば[[聖冏]]は『鹿島[[問答]]』に「浄穢[[不二]][[凡聖]]一如」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0831 浄全一二・八三一上])と説き、「彼の三十二の[[菩薩]]の[[不二]]の法門すでにこれ真実の義にあらず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J12_0831 同八三一下])などと『維摩経』の教説をめぐって判釈している。
 
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【参照項目】➡[[相対的二元論・絶対的一元論]]
 
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【執筆者:勝崎裕彦】
 
【執筆者:勝崎裕彦】

2018年9月17日 (月) 10:09時点における版

ふに/不二

二つのものの相対的対立を超えた、二者の絶対的平等を意味する語。Ⓢadvaya。二ではないというところに意味があり、いわゆる一元論ではなく、二者相対の矛盾のない和合・融合を説くところに力点を置いたものと考えることができる。大乗仏教菩薩思想では智悲不二自利利他不二が強調されて、二つながら、共々に等しく一体となったものという意味で使われる。有名な「維摩の一黙」のエピソードを導く『維摩経』の不二法門は、二者の対立を離れて、相対的差別を超えた絶対的平等の理念へと説き進めている。浄土教では仏・如来凡夫衆生との関係や機と法との関係を凡聖不二凡聖一如)、機法不二機法一体)として説くことがある。たとえば聖冏は『鹿島問答』に「浄穢不二凡聖一如」(浄全一二・八三一上)と説き、「彼の三十二の菩薩不二の法門すでにこれ真実の義にあらず」(同八三一下)などと『維摩経』の教説をめぐって判釈している。


【参照項目】➡相対的二元論・絶対的一元論


【執筆者:勝崎裕彦】