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提供: 新纂浄土宗大辞典

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迷いの此岸から覚りの[[彼岸]]に渡る、到るの意味。Ⓢpāramitāの音写。[[波羅蜜]]多とも音写し、度・度無極・[[彼岸]]・到[[彼岸]]・究竟と義訳される。古訳は度、[[新訳]]は到[[彼岸]]と訳すが、すでに『[[大智度論]]』一二に「波羅は秦に[[彼岸]]と言い、蜜は秦に到と言う」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V25.0145a.html 正蔵二五・一四五上])と割註して、到[[彼岸]]の訳語が使用されている。さらに「[[生死]]を以て此岸と為し、[[涅槃]]を以て[[彼岸]]と為す」(同・一四五下)と[[解釈]]されて、[[生死]]の迷いの此岸から[[涅槃]]の覚りの[[彼岸]]へ到ることとの意味合いを確認している。『[[般若経]]』では代表的な[[布施]]・[[持戒]]・[[忍辱]]・[[精進]]・[[禅定]]・[[般若]]([[智慧]])の[[六波羅蜜]]、『[[華厳経]]』などでは第六の[[般若]]を[[方便]]・願・力・智の四[[波羅蜜]]に展開した十[[波羅蜜]]などが説かれる。また、[[涅槃]]の[[四徳]]を常[[波羅蜜]]・楽[[波羅蜜]]・我[[波羅蜜]]・浄[[波羅蜜]]と説く場合もある。『[[無量寿経]]』下に説かれる「[[菩薩]]の諸[[波羅蜜]]を究竟し」(聖典一・二六〇/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0024 浄全一・二四])の一文を挙げるまでもなく、[[波羅蜜]]行こそ[[菩薩]]道の眼目である。
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迷いの此岸から覚りの[[彼岸]]に渡る、到るの意味。Ⓢpāramitāの音写。[[波羅蜜]]多とも音写し、度・度無極・[[彼岸]]・到[[彼岸]]・究竟と義訳される。古訳は度、[[新訳]]は到[[彼岸]]と訳すが、すでに『[[大智度論]]』一二に「波羅は秦に[[彼岸]]と言い、蜜は秦に到と言う」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V25.0145a.html 正蔵二五・一四五上])と割註して、到[[彼岸]]の訳語が使用されている。さらに「[[生死]]を以て此岸と為し、[[涅槃]]を以て[[彼岸]]と為す」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V25.0145c.html 同・一四五下])と[[解釈]]されて、[[生死]]の迷いの此岸から[[涅槃]]の覚りの[[彼岸]]へ到ることとの意味合いを確認している。『[[般若経]]』では代表的な[[布施]]・[[持戒]]・[[忍辱]]・[[精進]]・[[禅定]]・[[般若]]([[智慧]])の[[六波羅蜜]]、『[[華厳経]]』などでは第六の[[般若]]を[[方便]]・願・力・智の四[[波羅蜜]]に展開した十[[波羅蜜]]などが説かれる。また、[[涅槃]]の[[四徳]]を常[[波羅蜜]]・楽[[波羅蜜]]・我[[波羅蜜]]・浄[[波羅蜜]]と説く場合もある。『[[無量寿経]]』下に説かれる「[[菩薩]]の諸[[波羅蜜]]を究竟し」(聖典一・二六〇/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0024 浄全一・二四])の一文を挙げるまでもなく、[[波羅蜜]]行こそ[[菩薩]]道の眼目である。
 
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【参照項目】➡[[六波羅蜜]]
 
【参照項目】➡[[六波羅蜜]]
 
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【執筆者:勝崎裕彦】
 
【執筆者:勝崎裕彦】

2018年9月17日 (月) 10:09時点における版

はらみつ/波羅蜜

迷いの此岸から覚りの彼岸に渡る、到るの意味。Ⓢpāramitāの音写。波羅蜜多とも音写し、度・度無極・彼岸・到彼岸・究竟と義訳される。古訳は度、新訳は到彼岸と訳すが、すでに『大智度論』一二に「波羅は秦に彼岸と言い、蜜は秦に到と言う」(正蔵二五・一四五上)と割註して、到彼岸の訳語が使用されている。さらに「生死を以て此岸と為し、涅槃を以て彼岸と為す」(同・一四五下)と解釈されて、生死の迷いの此岸から涅槃の覚りの彼岸へ到ることとの意味合いを確認している。『般若経』では代表的な布施持戒忍辱精進禅定般若智慧)の六波羅蜜、『華厳経』などでは第六の般若方便・願・力・智の四波羅蜜に展開した十波羅蜜などが説かれる。また、涅槃四徳を常波羅蜜・楽波羅蜜・我波羅蜜・浄波羅蜜と説く場合もある。『無量寿経』下に説かれる「菩薩の諸波羅蜜を究竟し」(聖典一・二六〇/浄全一・二四)の一文を挙げるまでもなく、波羅蜜行こそ菩薩道の眼目である。


【参照項目】➡六波羅蜜


【執筆者:勝崎裕彦】