「二祖三代定判」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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にそさんだいじょうはん/二祖三代定判
善導・法然の二祖と法然・聖光・良忠の三代の所説を基準とし、浄土宗義を伝統として決定し判釈すること。明治二〇年(一八八七)に福田行誡のもとで宗制八章四八条が議定され、昭和一六年(一九四一)頃までに制定された「浄土宗制」第一章第三条には「経典及ビ宗義ノ解釈ハ善導大師ノ御疏(観経疏)、円光大師(法然)ノ選択本願念仏集、正宗国師(聖光)ノ授手印、記主禅師(良忠)ノ決疑鈔ノ指南ニ従フ」とあり、ここに言う二祖三代の所説による経典宗義解釈を定めて決定した判釈とした。これを二祖三代定判という。『決疑鈔』五で、良忠が「今、三代相承を以て輒五巻の決疑を記し已ぬ」(浄全七・三四七)と結語しているように、宗祖・二祖・三祖という三代相承の用語が見られ、七祖聖冏によって伝法制度が整い随他扶宗の性格が濃くなるなかで、徳川時代中期頃から、義山や貞極等による宗祖撰述資料の句読訓点校正や講述が盛んになされ、三代が重視されたのを窺うことができる。徳川時代以後の檀林での僧侶養成の伝統が持つ傾向を残しながら、明治時代に入ると、日本仏教諸宗派において宗義の独自的確立と純粋性とが、文明開化以来諸宗教が混在する中での仏教のアイデンティティーの宣揚のためにも重要であった。そのような理由を伴って、宗義の定判が必要であったと言える。
【参考】石井教道『改訂増補 浄土の教義と其教団』(富山房書店、一九七二)、岩崎敲玄『浄土宗史要』(国書刊行会、一九八四)
【執筆者:藤本淨彦】