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「在心・在縁・在決定」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

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[[衆生]]が生涯に重ねてきた造罪と、臨終に[[阿弥陀仏]]を念ずる[[十念]]を比較し、[[念仏]]の勝れたることを明らかにした説。[[曇鸞]]『[[往生論註]]』が初出。『[[往生論註]]』上に「[[五逆]][[十悪]]の繫業等を謂いて重しとなし、下[[下品]]の人の[[十念]]を以て軽しとなして、まさに罪のために<ruby>牽<rt>ひ</rt></ruby>かれてまず[[地獄]]に堕して[[三界]]に繫在すべしというは、今まさに義を以て軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り。時節の久近多少には在らざるなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0236 浄全一・二三六上]~下/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V40.0834b.html 正蔵四〇・八三四中])とある。これは『業道経』によれば、<ruby>秤<rt>はかり</rt></ruby>のように、罪の軽いものよりも重いものが牽かれるとあるにもかかわらず、『[[観経]]』には臨終において声を絶えさせず[[十念]]を[[具足]]して[[南無]][[無量寿仏]]と称えることによって[[往生]]できるという、両経の説示に導かれたもの。すなわち一生涯という長い時間をかけ[[五逆]][[十悪]]という不善を重ねてきた重さは、臨終という短い間に[[十念]]を[[具足]]して[[南無]][[無量寿仏]]と称えることの重さよりも重いため、臨終の[[十念]]では[[往生]]することはできないとする見解に対して三義を挙げて反論をするもの。[[曇鸞]]は[[在心]]について「かの造罪の人は自ら<ruby>虚妄[[顚倒]]<rt>こもうてんどう</rt></ruby>の見に依止して生じ、この[[十念]]の者は[[善知識]]の[[方便]]安慰に依って[[実相]]の法を聞くより生ず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0236 浄全一・二三六下]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V40.0834b.html 正蔵四〇・八三四中])と指摘し、造罪の人は自らいつわりの想いにとらわれ罪を造ったものであるのに対し、[[十念]]の者は善き人が[[方便]]によって[[実相]]の法を説くのを聞くことによって生じたものとする。在縁については「かの造罪の人はみずから妄想の心に依止し、[[煩悩]]虚妄の[[果報]]の[[衆生]]に依りて生じ、この[[十念]]の者は無上の[[信心]]に依止して、[[阿弥陀如来]]の[[方便]][[荘厳]]真実[[清浄]][[無量]]の[[功徳]][[名号]]に依りて生ず」(同/同下)と指摘し、造罪の人は妄想の心にとどまり、[[煩悩]]の報いをうけた[[衆生]]だから罪を生じるのに対し、[[十念]]の者はこの上ない[[信心]]を得て、[[阿弥陀仏]]の[[方便]][[荘厳]]である真実の[[清浄]]さを具えた[[無量]]の[[功徳]]を有する[[名号]]によって生じたものとする。在決定については「かの造罪の人は[[有後心]]、有間心に依止して生じ、この[[十念]]の者は無後心、無間心に依止して生ず」(同)と指摘し、造罪の人は後があるという心持ちで雑念を交えたうえで生じたものであるのに対し、[[十念]]の者は後がないという想いで、他想間雑のない心で生じたのであるとする。これら三義を説く際に、第一義において千載の闇室の譬え、第二義において<ruby>毒箭<rt>どくや</rt></ruby>の譬え、第三義において後心の有無を用いて、臨終の[[十念]]が重い理由をあきらかにしている。この三義は[[後世]]、多くの諸師に引用されるが、[[聖光]]は『[[徹選択集]]』上に[[二十二選択]]を説くなかで、三義の造罪を[[諸行]]に置き換え、[[諸行]]には[[在心・在縁・在決定]]の義がないからこれを選捨し、[[念仏]]には[[在心]]等の三義があるからこれを選取するといい、三種の[[選択]]の義をたてている。
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[[衆生]]が生涯に重ねてきた造罪と、臨終に[[阿弥陀仏]]を念ずる[[十念]]を比較し、[[念仏]]の勝れたることを明らかにした説。[[曇鸞]]『[[往生論註]]』が初出。『[[往生論註]]』上に「[[五逆]][[十悪]]の繫業等を謂いて重しとなし、下[[下品]]の人の[[十念]]を以て軽しとなして、まさに罪のために<ruby>牽<rt>ひ</rt></ruby>かれてまず[[地獄]]に堕して[[三界]]に繫在すべしというは、今まさに義を以て軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り。時節の久近多少には在らざるなり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0236 浄全一・二三六上]~下/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V40.0834b.html 正蔵四〇・八三四中])とある。これは『業道経』によれば、<ruby>秤<rt>はかり</rt></ruby>のように、罪の軽いものよりも重いものが牽かれるとあるにもかかわらず、『[[観経]]』には臨終において声を絶えさせず[[十念]]を[[具足]]して[[南無]][[無量寿仏]]と称えることによって[[往生]]できるという、両経の説示に導かれたもの。すなわち一生涯という長い時間をかけ[[五逆]][[十悪]]という不善を重ねてきた重さは、臨終という短い間に[[十念]]を[[具足]]して[[南無]][[無量寿仏]]と称えることの重さよりも重いため、臨終の[[十念]]では[[往生]]することはできないとする見解に対して三義を挙げて反論をするもの。[[曇鸞]]は[[在心]]について「かの造罪の人は自ら<ruby>虚妄[[顚倒]]<rt>こもうてんどう</rt></ruby>の見に依止して生じ、この[[十念]]の者は[[善知識]]の[[方便]]安慰に依って[[実相]]の法を聞くより生ず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0236 浄全一・二三六下]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V40.0834b.html 正蔵四〇・八三四中])と指摘し、造罪の人は自らいつわりの想いにとらわれ罪を造ったものであるのに対し、[[十念]]の者は善き人が[[方便]]によって[[実相]]の法を説くのを聞くことによって生じたものとする。在縁については「かの造罪の人はみずから妄想の心に依止し、[[煩悩]]虚妄の[[果報]]の[[衆生]]に依りて生じ、この[[十念]]の者は無上の[[信心]]に依止して、[[阿弥陀如来]]の[[方便]][[荘厳]]真実[[清浄]][[無量]]の[[功徳]][[名号]]に依りて生ず」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0236 同]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V40.0834c.html 同下])と指摘し、造罪の人は妄想の心にとどまり、[[煩悩]]の報いをうけた[[衆生]]だから罪を生じるのに対し、[[十念]]の者はこの上ない[[信心]]を得て、[[阿弥陀仏]]の[[方便]][[荘厳]]である真実の[[清浄]]さを具えた[[無量]]の[[功徳]]を有する[[名号]]によって生じたものとする。在決定については「かの造罪の人は[[有後心]]、有間心に依止して生じ、この[[十念]]の者は無後心、無間心に依止して生ず」(同)と指摘し、造罪の人は後があるという心持ちで雑念を交えたうえで生じたものであるのに対し、[[十念]]の者は後がないという想いで、他想間雑のない心で生じたのであるとする。これら三義を説く際に、第一義において千載の闇室の譬え、第二義において<ruby>毒箭<rt>どくや</rt></ruby>の譬え、第三義において後心の有無を用いて、臨終の[[十念]]が重い理由をあきらかにしている。この三義は[[後世]]、多くの諸師に引用されるが、[[聖光]]は『[[徹選択集]]』上に[[二十二選択]]を説くなかで、三義の造罪を[[諸行]]に置き換え、[[諸行]]には[[在心・在縁・在決定]]の義がないからこれを選捨し、[[念仏]]には[[在心]]等の三義があるからこれを選取するといい、三種の[[選択]]の義をたてている。
 
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【執筆者:石川琢道】
 
【執筆者:石川琢道】

2018年9月17日 (月) 10:08時点における最新版

ざいしん・ざいえん・ざいけつじょう/在心・在縁・在決定

衆生が生涯に重ねてきた造罪と、臨終に阿弥陀仏を念ずる十念を比較し、念仏の勝れたることを明らかにした説。曇鸞往生論註』が初出。『往生論註』上に「五逆十悪の繫業等を謂いて重しとなし、下下品の人の十念を以て軽しとなして、まさに罪のためにかれてまず地獄に堕して三界に繫在すべしというは、今まさに義を以て軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り。時節の久近多少には在らざるなり」(浄全一・二三六上~下/正蔵四〇・八三四中)とある。これは『業道経』によれば、はかりのように、罪の軽いものよりも重いものが牽かれるとあるにもかかわらず、『観経』には臨終において声を絶えさせず十念具足して南無無量寿仏と称えることによって往生できるという、両経の説示に導かれたもの。すなわち一生涯という長い時間をかけ五逆十悪という不善を重ねてきた重さは、臨終という短い間に十念具足して南無無量寿仏と称えることの重さよりも重いため、臨終の十念では往生することはできないとする見解に対して三義を挙げて反論をするもの。曇鸞在心について「かの造罪の人は自ら虚妄顚倒こもうてんどうの見に依止して生じ、この十念の者は善知識方便安慰に依って実相の法を聞くより生ず」(浄全一・二三六下正蔵四〇・八三四中)と指摘し、造罪の人は自らいつわりの想いにとらわれ罪を造ったものであるのに対し、十念の者は善き人が方便によって実相の法を説くのを聞くことによって生じたものとする。在縁については「かの造罪の人はみずから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報衆生に依りて生じ、この十念の者は無上の信心に依止して、阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳名号に依りて生ず」(同下)と指摘し、造罪の人は妄想の心にとどまり、煩悩の報いをうけた衆生だから罪を生じるのに対し、十念の者はこの上ない信心を得て、阿弥陀仏方便荘厳である真実の清浄さを具えた無量功徳を有する名号によって生じたものとする。在決定については「かの造罪の人は有後心、有間心に依止して生じ、この十念の者は無後心、無間心に依止して生ず」(同)と指摘し、造罪の人は後があるという心持ちで雑念を交えたうえで生じたものであるのに対し、十念の者は後がないという想いで、他想間雑のない心で生じたのであるとする。これら三義を説く際に、第一義において千載の闇室の譬え、第二義において毒箭どくやの譬え、第三義において後心の有無を用いて、臨終の十念が重い理由をあきらかにしている。この三義は後世、多くの諸師に引用されるが、聖光は『徹選択集』上に二十二選択を説くなかで、三義の造罪を諸行に置き換え、諸行には在心・在縁・在決定の義がないからこれを選捨し、念仏には在心等の三義があるからこれを選取するといい、三種の選択の義をたてている。


【執筆者:石川琢道】