「与奪」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:35時点における最新版
よだつ/与奪
法を明かすときの二つの態度。与釈と奪釈。本義の肝要を拡張、緩和して共通性を見出しうる事柄をも肯定するのが与釈。与とは許容するの意。逆に所余を排除して厳密に旨とするところのみを是とするのが奪釈。状況に応じて個別に用いたり、また段階的に自宗に教導するために併用したりする場合もある。例として『摩訶止観』三上で章安灌頂は「私に謂く、随情は是れ併べて与え、随情智は是れ半ば与え半ば奪い、随智は是れ併べて奪うなり」(正蔵四六・二七下)という。その結果同一の事項について説かれた教説に矛盾した説相が現れることもありうるが、矛盾した複数の教説に直面した場合には、これを前提としてその受け手の教相判釈の手がかりともなる。例えば良忠『決疑鈔』二に「此の如きの与奪は釈義の法なり。所謂る上の文は広く堪不堪の機を挙ぐ。故に与えて三五と云う。此の文は即ち多分の機に約す。故に奪って無一と云う」(浄全七・二二九上)とある。
【参照項目】➡教相判釈
【執筆者:小澤憲雄】