「一向」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:19時点における最新版
いっこう/一向
一つに向かうことで、ひたすら、もっぱら、まったくの意味。心を一つのことに向けて他事へ向けないこと。『無量寿経』下には「一向に専ら無量寿仏を念ず」(聖典一・二四九/浄全一・一九)と説き、『観経疏』散善義では「定散両門の益を説きたまうといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」(聖典二・三二三/浄全二・七一下)という。法然は『選択集』四で「一向とは二向三向等に対する言なり。…すでに一向と云う。余を兼ねざること明けし」(聖典三・一二六)と言い、諸行を廃して念仏に帰すべきことを主張している。念仏以外の余行を捨てて、念仏一行だけを専らひたすらにすることである。『一枚起請文』は「只一向に念仏すべし」(昭法全四一六)と結語され、法洲の『一枚起請講説』下では「此の一向に安心の一向と起行の一向とあり、…安心も起行も共に一向なるを一向専修の行者と云って…」(浄全九・二九三上~下)とある。
【資料】『無量寿経釈』、『逆修説法』、『一枚起請見聞』
【参照項目】➡専修念仏
【執筆者:藤本淨彦】