「浄福寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版
じょうふくじ/浄福寺
一
千葉県香取市下小堀。巨徳山光明院。千葉教区№九八。建長二年(一二五〇)、当時の小見川城主・粟飯原胤秀が良忠を開山と仰いで創建した。知恩院末。『利根川図志』五によれば、当寺では二〇年に一度、「鬼来迎」や「鬼舞」と呼ばれる仏教劇が演じられていたことが知られる。この鬼来迎について、当寺に伝わる正和五年(一三一六)良光作の縁起書『鬼来迎問答踟供養』には、良忠が菩薩の慈悲を広く民衆に教化するために考案し、建長四年(一二五二)に公開したことがその起源であると記されている。現在、当寺所蔵の菩薩面と鬼面は、「浄福寺の鬼舞面」として千葉県有形民俗文化財に指定されている。
【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)
【参考】『鹿島日記』(高田与清、東都耕文堂、一八二二)、『利根川図志』(赤松宗旦、一八五五)、『千葉県浄土宗寺院誌』(千葉県浄土宗寺院誌刊行委員会、一九八二)
【参照項目】➡鬼来迎
【執筆者:杉山裕俊】
二
京都市上京区浄福寺通一条上ル笹屋町。恵照山知光院。村雲寺とも呼ばれる。京都教区№二一〇。桓武天皇の勅によって建てられたと寺伝にはあるが、実際は平安時代に中宮班子が建立したものとされている(『類聚三代格』)。数度の火災の後、良源により坂本に再建されたが、建治二年(一二七六)後宇多天皇の勅により、村雲(上京区)の地に再建され、臨済宗の寺院となる。のち天台宗になり、さらにのち、浄土宗に転じた。天正一五年(一五八七)に、豊臣秀吉の命で相国寺門前今出川北の地に移転。元和元年(一六一五)に現在の地に移る。寺宝に、絹本著色阿弥陀三尊二十五菩薩来迎図(二幅、鎌倉時代)、絹本著色十王図(一〇幅、室町時代)などの国重要文化財がある。
【資料】『蓮門精舎旧詞』三
【参考】中井真孝「浄福寺管見—その古代・中世—」(『仏教論叢』一九、一九七五)
【執筆者:角野玄樹】