「行基」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:22時点における最新版
ぎょうき/行基
天智七年(六六八)—天平勝宝元年(七四九)二月二日。法相宗の僧。河内国大鳥郡(大阪府堺市付近)に生まれる。天武一一年(六八二)、一五歳で出家し、道昭、義淵などについて法相の教えを学ぶ。慶雲元年(七〇四)に帰郷した際、生家を改めて家原寺とする。その後、諸国を遊化し、寺院を建立するなど民間布教に力を尽くすとともに、架橋、築道、灌漑、布施屋や施薬院を設置するなどの社会事業にも励んだ。畿内には行基を開基と伝える寺院が多くあり、四九を数える。これらの活動によって多数の帰依者を得て、行基菩薩・行基大徳と崇められた。一時期、僧尼令違反として弾圧を受けたとされているが、聖武天皇が国家事業として大仏造立を指示した際には勧進役として起用され、大僧正に任ぜられた。大仏造立中の天平勝宝元年、菅原寺において没したとされる。行基の事跡については諸書において記載が異なり一定ではない。
【資料】『元亨釈書』一四(仏全一〇一)、『行基菩薩伝』(『続群書類従』八)、『行基年譜』(『続々群書類従』三)
【参考】井上馨『行基』(吉川弘文館、一九五九)、吉田靖雄『行基と律令国家』(吉川弘文館、一九八七)
【執筆者:沼倉雄人】