「波羅蜜」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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【執筆者:勝崎裕彦】 | 【執筆者:勝崎裕彦】 |
2018年9月17日 (月) 10:09時点における最新版
はらみつ/波羅蜜
迷いの此岸から覚りの彼岸に渡る、到るの意味。Ⓢpāramitāの音写。波羅蜜多とも音写し、度・度無極・彼岸・到彼岸・究竟と義訳される。古訳は度、新訳は到彼岸と訳すが、すでに『大智度論』一二に「波羅は秦に彼岸と言い、蜜は秦に到と言う」(正蔵二五・一四五上)と割註して、到彼岸の訳語が使用されている。さらに「生死を以て此岸と為し、涅槃を以て彼岸と為す」(同・一四五下)と解釈されて、生死の迷いの此岸から涅槃の覚りの彼岸へ到ることとの意味合いを確認している。『般若経』では代表的な布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧)の六波羅蜜、『華厳経』などでは第六の般若を方便・願・力・智の四波羅蜜に展開した十波羅蜜などが説かれる。また、涅槃の四徳を常波羅蜜・楽波羅蜜・我波羅蜜・浄波羅蜜と説く場合もある。『無量寿経』下に説かれる「菩薩の諸波羅蜜を究竟し」(聖典一・二六〇/浄全一・二四)の一文を挙げるまでもなく、波羅蜜行こそ菩薩道の眼目である。
【参照項目】➡六波羅蜜
【執筆者:勝崎裕彦】