「金光」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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こんこう/金光
久寿元年(一一五四)—建保五年(一二一七)。鎌倉時代の人。九州石垣(福岡県久留米市田主丸町)の出身。土地の訴訟で鎌倉へ来た際に法然の弟子安楽と出会い、やがて法然に帰依して東北地方に念仏信仰を広めた。詳しい伝歴は不明。良忠『疑問抄』上に「昔、親盛法師、予に語げて云く、上人在世の時、問い奉って云く、御往生の後は、浄土の法門、不審をば誰人にか問うべきやと。上人答えて云く、聖光房と金光房とは委しく所存を知れり。彼等は遠国の能化たれば、汝の為に易からず」(聖典五・二九五/浄全一〇・二七上)とあるように、法然門下の高弟の一人として知られる。なおこの一文によれば金光は法然の生前に陸奥国に出向いていたこととなり、『四十八巻伝』四八に「嘉禄三年、上人の門弟を国々に遣わされし」(聖典六・七六五)とある記述は誤り。浄土教への帰依については、性心『授手印決答見聞』巻下見聞附記に、金光が所領のことで九州から鎌倉へ来て、石川の禅門(渋谷の道遍)を通じて幕府へ訴訟をした際、京都から布教に来ていた安楽に、禅門が『選択集』の講述を依頼し、その講述の座に同席したのが機縁となったことが記されている(浄全一〇・八五上)。また聖冏の『銘心抄』上には「金光房とは是れ彼の寺の別当なり。奥州会津と云う所に至りて、殊勝の往生を遂げ了んぬ。本宗は天台なり」(浄全一〇・六一下)とあり、石垣観音寺の別当職であったことを伝えている。
【資料】『翼賛』四八(浄全一六)、信冏『鎮西上人伝』附載「金光禅師行状附正中山縁起第三」「奥州東日流正中山大権現略縁起」(浄全一七)
【参考】阿川文正監修・金子寛哉他編『金光上人関係伝承資料集』(金光上人関係伝承資料集刊行会、一九九九)、佐藤堅瑞『金光上人の研究』(浄円寺、一九六〇)、開米智鎧編『金光上人』(金光上人刊行委員会、一九六四)
【参照項目】➡金光上人関係伝承資料集、広隆寺一
【執筆者:金子寛哉】