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「遊蓮房」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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2018年3月30日 (金) 06:35時点における最新版

ゆうれんぼう/遊蓮房

保延五年(一一三九)—治承元年(一一七七)。藤原是憲これのり、本名は高伊たかただ(尹)、出家して円照と号す。法然浄土開宗の後に比叡山を下りて会いに行った人物。少納言藤原通憲みちのり(信西入道)の三男、母は高階重仲の娘、弟に明遍がいる。飛驒守少納言であったが、平治の乱により父が殺され、一族が配流となった平治元年(一一五九)二一歳で出家し、京都西山の広谷草庵を結んだ。初めは『法華経』を覚えたが、後には一向念仏者となり、経典・書籍を一巻も持たなかった。善導流念仏を実践し、高声念仏は必ず現徳を得る行であるといい、毎日三時高声念仏して、念仏三昧において一定の証を得ていた。身体は細々としていたが、わずかに歩くにも極楽の曼陀羅を首にかけ、休む時は横にかけて、極楽六時讃を誦し念仏を称えた。道心堅固で勇猛精進し、まったく俗に混じることがなかった故に、一族はこぞって仏のように尊んだという。遊蓮房法然と同じ叡空門下の信空の叔父にあたり、法然はおそらく信空を介してその信仰の姿を知り、比叡下山後、直ちに広谷に赴いたと考えられる。法然との交流はほんの二、三年の間であったと推定されるが、遊蓮房善峰よしみねにおいて命終に臨んで、九遍まで念仏を称えた後、「もう一念」と法然に勧められ、高声に一念して三九歳で往生したという。法然は「浄土の法門と遊蓮房とに会えるこそ、人界の生を受けたる思い出に侍れ」(『四十八巻伝』四四、聖典六・六八四/法伝全二八四)と、また、「源空明遍〔の兄、遊蓮房〕の故にこそ念仏者にはなりたれ」(『弘願本』二、法伝全五三三下)と述懐するように、遊蓮房から受けた影響の大きさが窺える。


【資料】『明義進行集』二「第二高野僧都明遍」(『明義進行集影印・翻刻』法蔵館、二〇〇一)、『四十八巻伝』四四、『翼賛』四四、五八、『尊卑分脈』二(『新訂増補国史大系』五九)


【参考】伊藤真徹「法然上人と通憲一族の帰浄」(『日本浄土教文化史研究』隆文館、一九七五)、伊藤唯眞「遊蓮房円照と法然の下山」『聖仏教史の研究』上(『伊藤唯眞著作集』一、法蔵館、一九九五)


【参照項目】➡広谷


【執筆者:山本博子】