「祭り」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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まつり/祭り
神仏の御前に尊崇・感謝の意をこめて饗応し、神仏を招き入れて、一定の日時を定めて行う集団的宗教行動をいう。祭礼・祭祀・祭儀・祭典ともいう。「まつり」は動詞「まつる」の連用形の名詞化であるが、「まつり」の語義は多様である。「まつる」は「まつ」を語源とした動詞で、神を待ち迎えることが原義であるとされる。また、「まつる」という動詞から複合動詞の「奉る」が生じ、「まつる」の動詞四段活用の未然形「まつら」に継続の語尾がつき、服従する意の「まつらふ」となったとされる。英語のfeastや独語のfestは神聖な饗宴を意味するラテン語のfestumに由来する。また日本語の「マツリゴト」と言えば政治のことであるが、古代社会においては祭りと政治が未分化であり、祭りが国家の運営において不可欠な集団的行動であったことを示していよう。祭りの集団性についてはデュルケムが述べているように、エスキモー(イヌイット)社会では、世俗的な夏に対して、氷雪に閉ざされ狩猟に専心する冬は宗教的高揚をみせ長期にわたる祭りが営まれるという。また、神道の祭りは季節性を指摘できるが、祭りの解釈や位置づけについては多様な意見がある。カイヨワは祝祭を聖犯と考え、エリアーデは、祭りはヒエロファニー(hierophany、聖性具現)のゆえに意義があるという。デュルケムは「世界を、一つはすべて聖であるものと、他方はあらゆる俗であるものを含む二領域に分かつこと、これが世界思想の著しい特徴である」と述べているが、リーチは聖なるものの境界性に注目する。構造主義の立場からすると、境界とは、自然のままで、連続していて切れ目のないところにあえて入れた人為的な分断である。すなわち、日常・非日常、時間的限定性・無時間性、明瞭分明な範疇・曖昧不分明な範疇、中心・周縁、俗・聖、の二項対立の認識のなかで、二つの領域が混じりあうところこそが「聖なる領域」であり、タブー扱いをうける。と同時にその場では形式性、仮装性、役割の転換性が見られ、ターナーのいう無構造または反構造の位相となる。ターナーは、聖なる領域は神霊が顕現し、人との出会いの場、いうならば「神の家」、「会衆の家」であり、社会的な意味におけるアジールの場であるという。千葉正士は日本の祭りにおいて宗教が果たす役割に触れ、仏教が祖先の祭りを通して血縁関係にある者を統括し、神道は非血縁関係者をも氏神や鎮守神の系列に位置づけることによって集団化する役割を担ってきたことを指摘する。
【参考】西角井正慶『祭祀概論』(神社新報社、一九五七)、エミール・デュルケム著/古野清人訳『宗教生活の原初形態』上・下(岩波文庫、一九四一~二)、ロジェ・カイヨワ著/清水幾太郎他訳『遊びと人間』(岩波書店、一九七〇)、ミルチャ・エリアーデ著/堀一郎訳『大地・農耕・女性』(未来社、一九六八)、ロナルド・リーチ著/青木保・宮坂敬造共訳『文化とコミュニケーション』(紀伊国屋書店、一九八一)、千葉正士『祭りの法社会学』(弘文堂、一九七〇)
【参照項目】➡聖と俗
【執筆者:藤井正雄】