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西阿弥陀仏

提供: 新纂浄土宗大辞典

さいあみだぶつ/西阿弥陀仏

建仁二年(一二〇二)—宝治元年(一二四七)六月五日。大江広元の四男、毛利季光。出家して西阿弥陀仏西阿と名乗る。森入道ともいう。相模さがみ国毛利庄(神奈川県厚木市飯山)を支配した関東御家人。初代の毛利姓を名乗り、戦国大名の毛利一族は末裔にあたる。承久元年(一二一九)、将軍源実朝が暗殺された後に出家するが、のち関東評定衆として幕政の枢機に参画した。嘉禄の法難で奥州配流となった隆寛の護送の役にあったが、西阿弥陀仏隆寛に深く帰依し、自らの取り計らいで奥州には隆寛弟子実成房を身代わりとして送り、隆寛を自らの所領の飯山にかくまった。熱心な念仏信者として知られるが、亡くなる数ヶ月前に聖徳太子孝養像(埼玉県行田市天州寺蔵)を造立し、近親者の追善、造像結縁者の往生極楽を願うなど雑修的な念仏信仰にあった。『吾妻鏡』には、宝治合戦で三浦氏方となって敗北したとき、頼朝の墓所である法華堂で『法事讃』を行じて自刃を遂げたことが記される。


【資料】『四十八巻伝』六、『吾妻鏡』


【参照項目】➡隆寛嘉禄の法難飯山


【執筆者:伊藤茂樹】


—応仁年間(一四六七—一四六九)—、生没年不明。西阿ともいう。俗姓は不詳。時宗出家し、京都四条烏丸に西光庵を結び住した。その生活は質素で清貧であったと伝えられる。


【資料】『鎮流祖伝』(浄全一七・五四四下~五下)


【執筆者:編集部】