慚愧
提供: 新纂浄土宗大辞典
ざんき/慚愧
自身の罪を深く恥じる心の作用。慚はⓈhrī、愧はⓈapatrāpya。「ざんぎ」ともいう。慚・愧の二字はともに恥の意を持つが、一般に、慚は自らの罪を自省し恥じること、愧は自らの罪を他者に恥じることをさす。『俱舎論』四、『成唯識論』六などにさまざまな解釈がある。日本で典拠として挙げられる『北本涅槃経』には「二つの白法有りて、能く衆生を救う。一つには慚、二つには愧なり。慚とは自ら罪を作らず、愧とは他を教えて作らせしめず。慚とは内自ら羞恥し、愧とは発露して人に向う。慚とは人に羞じ、愧とは天に羞づ。これを慚愧と名く。慚愧無き者には、名けて人と為さず、名けて畜生と為す。慚愧有るが故に則ち能く父母、師長を恭敬し、慚愧有るが故に父母・兄弟・姉妹有り」(正蔵一二・四七七中~下)と説かれる。浄土教では善導も『般舟讃』や『往生礼讃』で、念仏行における慚愧の必要性を強調している。総じて慚愧は、自身の行為を羞恥し規制する多様な精神のはたらきである。慚愧は懺悔と並置される場合が多いが、懺悔という様式を根底的に支える情念であるという説もある。一方、慚愧は教学的用語に留まらず、日本文化の特色とされる「恥の文化」論を見直す契機を含む点で、日本人の精神史解明の鍵概念としても有効となる。
【参考】池見澄隆『慚愧の精神史—「もうひとつの恥」の構造と展開』(思文閣出版、二〇〇四)
【参照項目】➡懺悔
【執筆者:池見澄隆】