性悪
提供: 新纂浄土宗大辞典
しょうあく/性悪
あらゆる衆生には生まれつき善と悪の性が具わっており、それを性善と性悪という。これらは決して断絶することはできない。これに対して後天的な遇縁によって生じる善と悪があり、それを修善と修悪といい、これらは断絶することが可能である。したがって、ここでいう性悪とは先天的にすべての衆生に具わっている本性としての悪ということになり、たとえ仏であろうともこの性悪は具えており、これを断絶することはできないとする。天台における性悪の思想は、智顗の『観音玄義』上において詳細に説かれている。「闡提は修善を断じ尽くして、ただ性善あり。仏は修悪を断じ尽くして、ただ性悪あり。…性の善悪はただ是れ善悪の法門なり。性は改むべからず。三世を歴るも誰か能く毀くものなく、また断壊すべからず」(正蔵三四・八八二下)と述べられているように、何一つとして善根もなく救われる望みすらないような悪人(一闡提)は、この在世中に修善を断じてしまっているものの、先天的な性善は具えたままである。一方で仏は在世中に修悪を断じ尽くして覚りを証得したとはいえ、先天的な性悪をなお具えたままでいる。また『観音玄義』にはつづけて、「いま明かす、闡提は性徳の善を断ぜざれば縁に遇いて善は発り、仏も亦た性悪を断ぜず、機縁の激する所、慈力の熏ずる所にして、阿鼻に入りて一切の悪事に同じて衆生を化す」(正蔵三四・八八三上)とあるように、一闡提のような修悪の衆生は、現世での修善を断絶しているが、性善を具えているため、良縁に遇うことで修善が発動され救済される可能性があり、また仏は性悪を具えた立場から衆生の悪に対する理解を示すとともに、たとえ地獄に至ってでも、そうした衆生を救済するはたらきがある。智顗以後、この性悪と性善や、修悪と修善は、湛然の『止観輔行伝弘決』や知礼の『十不二門指要鈔』に引きつがれ、天台宗における伝統的な善悪論となるにいたった。また華厳宗においても、法蔵の『華厳経探玄記』や、澄観の『華厳経疏』でも議論されている。
【参考】森部逞禅「天台性悪論」(浄土学五、一九三三)、塩入法道「天台教学における善悪の問題」(『日本仏教学会年報』六五、二〇〇〇)
【参照項目】➡闡提
【執筆者:齊藤隆信】