宗教哲学
提供: 新纂浄土宗大辞典
しゅうきょうてつがく/宗教哲学
宗教の本質や意義を哲学的方法によって探究する学問。
[成立]
宗教哲学の成立ないし成立時期については、さまざまな見解がある。その理由は、「宗教哲学をどのような学問として捉えるか」という問題と、宗教哲学の成立とが密接に結びついているからである。文献的にみれば、西洋において、一八世紀の末頃に「宗教哲学」(Religionsphilosophie)という学名が登場し、一九三〇年代になって学界で普通に用いられるようになったようである。簡潔にいうと、カントが宗教哲学の学問的地位を他の学問との関係において確立し、シュライエルマッハーが宗教の独自な領域と機能を探究し、ヘーゲルが思弁的観点から整然たる体系化をおこなった、といってよい。日本に目をうつせば、清沢満之の『宗教哲学骸骨』が明治二五年(一八九二)に出ている。
[内容]
宗教哲学の立場やタイプは、大きく分けて二つある。まず、自らが信じている宗教の立場から、その宗教の内容や、その宗教と個人・社会・文化・自然などとの関わりについて思索するもの。このタイプの宗教哲学により、自分の宗教や信仰をより深く探究することができる。しかしながら、波多野精一が警告するように、「感傷的な自己陶酔におわりがちな、研究者自身の体験物語」になる傾向があり、排他的に自分の宗教を絶対視する護教的傾向をもつ恐れがある。これに対して、宗教を哲学的に思索する研究者と思索対象となる宗教との間に、距離をおく立場がある。すなわち、理性や直観などに依拠しながら、宗教の本質に迫ろうとしたり、諸宗教に共通なものを抽出しようとしたりする立場である。このタイプの場合、宗教に対して批判的な結論を導く可能性もある。たとえば、論理学の観点から、ある宗教がはらむ矛盾を指摘するような場合である。しかしながら、この立場にたつ宗教哲学者といえども、自分自身の価値観・宗教観・方法論等にもとづきながら研究しているのであって、決して、価値中立的で客観的な立場にたっているわけではない。さらに、以上の二つの立場が入り混じっているタイプの宗教哲学も存在する。現代においては、人文・自然・社会諸科学が目覚しい成果をあげてきているうえに、諸学問の境界線が従来のように見えにくくなってきている。当然のことながら、宗教哲学のあり方も問われねばならない時代である。こうした時代において、宗教哲学には、上記の二つのいずれの立場においても、諸学問の成果を相互に関連づけて統合的に思索することが必要となってきている。複雑化する世界のなかにおいて、人間生活についての全体的見通しを持ちながら、また人間が歩むべき方向性を見据えながら、人間・宗教・世界についての宗教哲学的思索を展開しなければならない。
[宗教哲学と浄土教との関わり]
ごく一部においては、「浄土教では、知の要素は信によって置き換えられ、実相の探究は排除されがちである」といわれることもある。しかしながら、これは必ずしも、浄土教についての宗教哲学的な思索が成立しないことや不要であることを意味するものではない。清沢には前記の著書のほかに『他力門哲学骸骨試稿』という著書もある。浄土教について宗教哲学的に思索する場合、さまざまな問題が挙げられようが、中心的な問題の一つは「救済の原理」であろう。浄土教は、人間存在の根本的矛盾(罪業)を凝視する一方で、この矛盾の克服の根拠を人間の内面にではなく超越的な力(他力)に求める。こうした「内在と超越」「自力と他力」などの関わり方を深い次元で解明することが重要である。その際、グローバル化した世界において、教理・教学を踏まえながらも、それのみに限定されない広い視野から、浄土教を人間文化の中に位置づけることも必要である。それができて初めて、浄土教本来の素晴らしさが理解されるであろう。
【参考】小口偉一・堀一郎監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、一九七三)、藤田富雄『宗教哲学』(大明堂、一九七六)、星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』(勁草書房、一九九七)、西川知雄『法然浄土教の哲学的解明』(山喜房仏書林、一九七三)
【執筆者:星川啓慈】