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内藤五郎盛政

提供: 新纂浄土宗大辞典

ないとうごろうもりまさ/内藤五郎盛政

三世紀頃、生没年不明。法然弟子出家名は西仏。嘉禄の法難のとき法然の遺骸を警護した。嘉禄三年(一二二七)六月二二日、比叡山衆徒法然の廟堂を破壊しようとしたとき、仮御所に仕え兵衛府の判官じょうであった盛政法師西仏が使者として差し向けられ、盛政は言葉を尽くして止めようとしたが、衆徒は墓所を破壊し僧房を打ち壊したので、盛政は武威を振るって退散させた。その日の夜、法然の遺骸を大谷から嵯峨に移すにあたり、盛政は宇都宮頼綱らと共に、出家の身でありながら法衣の上に武器を携えて警護したという。法然に入門した時期は明らかではないが、出家名を記すのは『古徳伝』以降成立の伝記である。二尊院蔵の『七箇条制誡』の一四〇番目または一四三番目に署名する西仏と同一人物の可能性が考えられる。


【資料】『四十八巻伝』四二(聖典六)、『四巻伝』四、『古徳伝』九、『九巻伝』九上(以上、法伝全)、『翼賛』四二、五五(浄全一六)


【参考】中野正明「『七箇条制誡』について」(『増補改訂法然遺文の基礎的研究』法蔵館、二〇一〇)


【参照項目】➡嘉禄の法難


【執筆者:山本博子】