一五世紀中頃、生没年不明。号は良秀。清浄華院一一世、金戒光明寺一一世。定玄(清浄華院九世、金戒光明寺九世)について出家し、等熈とうき(清浄華院一〇世、金戒光明寺一〇世)から法灯を継いだ。初め花開院に住み、次いで清浄華院に転住し、のち金戒光明寺に移った。僧尋が清浄華院に住持していた頃かは定かでないが、等熈入滅の六年後、応仁の乱が起こり、その戦によって清浄華院の堂舎・仏閣が焼失した。
【資料】『清浄華院誌要』『黒谷誌要』(共に浄全二〇)
【執筆者:今井英之】