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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0571A01: 院を建立せり。此機運に乘じて。從來念佛者が棲遲
J20_0571A02: せる草菴茅宇も。擴張增築せられて。嚴然たる大地
J20_0571A03: 巨刹と成れるもの又尠からず。勿論此形勢は足利幕
J20_0571A04: 府中世以後漸次發生進展しつつありし所なるも。德
J20_0571A05: 川氏の保護は此形勢を躍進せしめたり。
J20_0571A06: 知恩院は本。粟田靑蓮院門跡の慈鎭和尚が宗祖に
J20_0571A07: 歸依せられ居りし關係上。建曆元年冬宗祖攝州よ
J20_0571A08: り歸洛の際。宗祖の住居に宛てられし大谷禪房に起
J20_0571A09: 由せり。故に當に靑門の支配に屬し。滿譽尊照に
J20_0571A10: 至るまでは。其の住職も粟田門跡の直接の任命或
J20_0571A11: は推選により敕命せられたり。故に靑蓮院にては
J20_0571A12: 之れを自己の支院末寺と見做して決して獨立視せざ
J20_0571A13: りしなり。彼の大永三年知恩院が百萬遍と本末を爭
J20_0571A14: ひ。朝廷の裁判百萬遍に偏して知恩院に不利なる
J20_0571A15: や。時の靑蓮院門跡にして天台座主たる尊鎭法親王
J20_0571A16: は。之れを不當として朝廷に辨訴せられ。其の訴の
J20_0571A17: 聽れざるや遂に高野に隱遁し給ひ。叡山三塔大衆は
J20_0571B18: 之れにより朝廷幕府に嗷訴し。向の裁斷が撤去せら
J20_0571B19: れて親王漸く歸座し給ひしが如き。之れは單に隣寺
J20_0571B20: の好意に基くものとするは皮相の見にして。實はこ
J20_0571B21: れを末院視し。末院の屈辱は即本寺の屈辱なり。單
J20_0571B22: に屈辱なるのみならず利害の關する所大なりしに因
J20_0571B23: らずんばあらず。這は山門の奏狀に『抑淨土一宗
J20_0571B24: 者。吾朝之弘通。以法然爲元基。以稱名爲行
J20_0571B25: 業。屢案其由來。彼然公者。叡峰住侶。台敎修練淨
J20_0571B26: 德也。然間扇靑蓮院御門葉。卜居於東山之衢。寄
J20_0571B27: 望於西刹之雲。因玆構知恩窻之一宇。爲諸德之本
J20_0571B28: 寺。專念不退之一行。定衆中之法度』とあるに徴し
J20_0571B29: て疑ふべからざる所なり。かくて知恩院は足利中葉
J20_0571B30: 以降。漸次寺域を擴張し。末寺を增加し。勢力を扶
J20_0571B31: 植しつつありしとは云へ。事實上靑蓮院に隷屬し。
J20_0571B32: 宗侶の香衣綸旨の執奏の如きも門跡の手を經由し。
J20_0571B33: それが爲に少からざる冥加金を納め。靑蓮院門跡の
J20_0571B34: 收入を助けつつありしなり。

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