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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0562A01: あり。文明七年西光寺の近地に一寺を艸建し。大樹寺
J20_0562A02: と稱し松平家の香華院となし。愚底を請して開山第
J20_0562A03: 一世となす。是より大樹寺は松平家の家運と共に消
J20_0562A04: 長し。三河に於ける本宗寺院の首座統領となれり。
J20_0562A05: 愚底は永正元年知恩院に住し第二十三代の住持たり
J20_0562A06: しが。八箇年を經て辞退す。是より先愚底の法弟肇
J20_0562A07: 譽訓公又三河に來り。存冏に繼ぎ信光明寺第二世住
J20_0562A08: 持となり。また御津大恩寺を隆昌にせしが。愚底の
J20_0562A09: 辞退するや代りて第二十四代の住持となる。かく聖
J20_0562A10: 聰門下。更に適切に云へば了曉の飯沼法流が。三河
J20_0562A11: に漲溢したるのみならず。又相繼ぎて京都祖山に董
J20_0562A12: 跡したる所以は。恐らく三河に於ける財力を以て
J20_0562A13: 祖山の貧弱を補給するの必要に應じたるものの如
J20_0562A14: し。
J20_0562A15: 四 京都
J20_0562A16: 三祖の宗風を京都に煽ぎたるもの。嚮には禮阿。
J20_0562A17: 慈心。道光の三師ありしも。禮阿の一流のみ淨華院
J20_0562B18: に存續して。多少祖光を揚ぐるに力めたるが如き
J20_0562B19: も。其他は殆んど見るに足るものなく。又知恩寺第
J20_0562B20: 六世にして知恩院第八世たる如一は。慈心に從ひ又
J20_0562B21: 關東に來りて三祖に宗要を習ひ。知恩寺第八世善阿
J20_0562B22: 空圓も三祖に就き剃染受業したりと傳へらるるも明
J20_0562B23: 據なきのみならず。其後の兩山は決して正統の下に
J20_0562B24: 屬せざりしが如し。後堺旭蓮社開山澄圓菩薩も鎌倉
J20_0562B25: に來り。良曉に受敎したるも。其影響は左程大なら
J20_0562B26: ざりしが如し。故に京師三山は全く其勢力環外に在
J20_0562B27: り。從て京畿には殆んど及ばざりしと云ふも可な
J20_0562B28: り。況んや永享年中に至りては。京都に於ける本宗
J20_0562B29: の勢力極めて微微として振はず。一大豪傑の來りて
J20_0562B30: 惰眠を覺醒し。刺戟を與ふるに非るよりは。祖山並
J20_0562B31: に京畿の本宗の運命岌岌乎として危嶮の狀に瀕せ
J20_0562B32: り。此の時に方りて大譽慶竺は京都に入り。百萬遍
J20_0562B33: 並に知恩院の貫主となれり。
J20_0562B34: 慶竺が京都に入りし直接の原因は明ならず。然れ

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