浄土宗全書を検索する
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巻_頁段行 | 本文 |
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J20_0561A01: | 次期に至りて增上寺觀智國師の門下。照譽了學之を |
J20_0561A02: | 復興するに及び。所謂飯沼流の本據は縁山流の占有 |
J20_0561A03: | する所となりしなり。 |
J20_0561A04: | 三 三河 |
J20_0561A05: | 縁山飯沼の叢林が。本宗學徒の養成に盡力し。次 |
J20_0561A06: | 期に於ける活動的人物を輩出せしむるに與りて力あ |
J20_0561A07: | りしがごとく。三河に於ける敎化は。德川氏と世世 |
J20_0561A08: | 親縁を結び。次期に於ける本宗雄飛の外護者たらし |
J20_0561A09: | むるに欠くべからざる準備をなせり。本宗僧侶にし |
J20_0561A10: | て參河に遊び。始めて德川氏の祖先と師檀の約束を |
J20_0561A11: | 堅めたる者を釋譽存冏となす。存冏以前了曉も東三 |
J20_0561A12: | 河に入り大音寺を開きたるも。德川氏と結ぶに至ら |
J20_0561A13: | ず。存冏は聖聰の資にして良肇に嗣法せる人。寶德 |
J20_0561A14: | 三年(宗祖滅後二百四十年)三河に遊化せしが。松平 |
J20_0561A15: | 信光の請に應じて其城下岩津に一寺を開く。信光の |
J20_0561A16: | 名に因み信光明寺と號す。信光存冏に歸し本宗を信 |
J20_0561A17: | ぜしより。その子孫相繼ぎて本宗を崇信し。信光の孫 |
J20_0561B18: | 親忠の男は存冏に就き出家して超譽存牛と號し。法 |
J20_0561B19: | 從兄訓公に次ぎ信光明寺に住せしが。後知恩院に昇 |
J20_0561B20: | 住し第二十五世と成る。德川家康が知恩院を擴張完 |
J20_0561B21: | 備したるは。親縁存牛董職地なりしことも其一因なり。 |
J20_0561B22: | 安政四年德川氏の奏請により高顯眞宗國師の敕諡を |
J20_0561B23: | 賜はる。 |
J20_0561B24: | 存冏に次ぎ。三河に遊び彼よりも深大なる歸仰を |
J20_0561B25: | 博せし者を勢譽愚底となす。愚底は了曉に從ひ嗣法 |
J20_0561B26: | せる人にして存冏の法叔なり。彼が三河に遊錫せる |
J20_0561B27: | 動機は明ならざるも。師了曉並法叔存冏の遊化に因 |
J20_0561B28: | 夤するは想像するに難からず。愚底始は宇禰部(今畝 |
J20_0561B29: | 部に造り碧海郡に屬す)阿彌陀院に留錫し。のち鴨田 |
J20_0561B30: | (額田郡大樹寺村)西光寺に移住す。西光寺の艸立と |
J20_0561B31: | 彼が移住の理由は不明なるも。寺は松平氏の創建に |
J20_0561B32: | して。親忠の請によりて此に移りしもののごとし。親 |
J20_0561B33: | 忠は信光の男にして松平家の正宗なり。深く愚底に |
J20_0561B34: | 歸依し。屢就きて本宗の法要を聽受して徹底せる所 |