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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0560A01: 酉冏は飯沼の師跡を相續し第三世たり。酉冏の後飯
J20_0560A02: 沼檀林は一譽宗悅。鎭譽祖洞相繼ぎ四世五世たり。
J20_0560A03: 祖洞は本と禪僧なりしが。のち本宗に歸入して宗悅
J20_0560A04: の弟子と成る。或は云ふ彼れ歸淨の後も尚禪服を襲
J20_0560A05: 用せしが。たまたま禪徒の之を詰るに逢ひ。五條の
J20_0560A06: 掛絡を脱して之を投與し。その他は依然舊の如し。
J20_0560A07: 本宗の禪服を用ゐる多きは彼れに淵源すと。惟ふに
J20_0560A08: 當時禪風の天下を風靡せしかば。本宗宗侶のこれを
J20_0560A09: 摸倣したるは勿論なるも。祖洞のごとき人ありて彼
J20_0560A10: 宗の服制をそのまま依用したるも。本宗に禪風を輸
J20_0560A11: 入したる重なる原因なりしなるべし。
J20_0560A12: 祖洞は又永正年中下野中里龍門寺及び宇都宮慈光
J20_0560A13: 寺を開き。後に德川廣忠の請に應じて。三河に赴き大
J20_0560A14: 樹寺に住し。弘始三年正月二十五日彼地に入寂せり
J20_0560A15: と云ふ。祖洞の門下には堯譽還魯。見譽善悅。隣譽
J20_0560A16: 貞鈍。宣譽祖白。道譽貞把等あり。還魯は祖洞に繼
J20_0560A17: ぎて飯沼第六世たり。還魯の下に聖譽貞安あり。織
J20_0560B18: 田信長の命により近江國安土城下に日蓮宗徒を論折
J20_0560B19: し。同地に西光寺を開き。又京都に織田信忠追福の
J20_0560B20: 爲に大雲院を剏めたる傑僧なり。善悅祖白相繼ぎて
J20_0560B21: 飯沼第七第八世たり。貞鈍は大樹寺を繼席し。又岡
J20_0560B22: 崎松應寺の開山たり。貞把が增上寺派の存貞と對抗
J20_0560B23: し。飯沼流の爲めに氣勢を張りしことは。之を次節に
J20_0560B24: 讓る。祖白の後飯沼の法席は。貞把の弟子團譽存把
J20_0560B25: 之を相續したりしも。天正の初年適小田原北條氏の
J20_0560B26: 軍勢此地方に侵入せる際。寺僧多賀谷氏に黨したる
J20_0560B27: ため。伽藍兵火のために烏有に歸し。大衆四散せし
J20_0560B28: かば。下妻に赴き城主多賀谷氏に依りて之が恢復を
J20_0560B29: 謀りしも成らず。退きて結城に隱遁し專ら念佛三昧
J20_0560B30: に耽りしが。後德川家康の長子秀康の結城に治する
J20_0560B31: や。之に歸依し結城に一寺を草創し香華院となし。
J20_0560B32: 存把を以て開山とし。飯沼の舊名により弘經寺と號
J20_0560B33: せり。是れ實に文祿四年のことなり。之を結城檀林
J20_0560B34: の起原とす。是に因り飯沼の法幢暫時中絶せしが。

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