浄土宗全書を検索する
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巻_頁段行 | 本文 |
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J20_0559A01: | 氏の請により彼の地に赴き。文明十三年根木内に東 |
J20_0559A02: | 漸寺を開創す。是れ佛法山法幢の沿源となす。この |
J20_0559A03: | 寺第五世行譽の時に今の地に移轉し。のちに十八檀 |
J20_0559A04: | 林の一員に列せらるること。後に記するところのご |
J20_0559A05: | とし。榮久は京師の人にして知恩寺傳譽の弟子なり |
J20_0559A06: | しが。關東に下りて音譽に嗣法し。明應三年宇治平 |
J20_0559A07: | 等院に入り。同院に於ける本宗の勢力を扶植したる |
J20_0559A08: | は此人の力なりと云ふ。 |
J20_0559A09: | 光冏ののち增上寺は。天譽了聞。僧譽智雲。親譽 |
J20_0559A10: | 周仰等相次で住職せしが。周仰門下には縁譽稱念。 |
J20_0559A11: | 杲譽天啓あり。稱念は周仰の弟子なるも。後に飯沼 |
J20_0559A12: | の鎭譽祖洞に師事したりと云へば。純粹增上寺系 |
J20_0559A13: | 統の人にあらず。眞面目なる道心者にして。世榮を |
J20_0559A14: | 厭忌し隱遁念佛を主となせり。其の開創する所の寺 |
J20_0559A15: | 院。江戸天智菴(今の天德寺)。京都一心院等數箇寺 |
J20_0559A16: | に及びしが。多くは嚴制を設けて淸肅淨業の道場た |
J20_0559A17: | らしめたり。就中一心院は祖廟の傍にありて彼が終 |
J20_0559B18: | 焉のところと定めたるだけに。其制規最も嚴肅にし |
J20_0559B19: | て。本宗捨世地の開祖たりしことは下に述ぶる所の |
J20_0559B20: | 如し。天啓は增上寺に住し第八世と成りしが。其門 |
J20_0559B21: | 下に有名なる感譽存貞あり。存貞の下に俊秀多く。 |
J20_0559B22: | 德川時代に至りて非常に活動して。本宗を盛大なら |
J20_0559B23: | しめたることは後に之を述ぶべし。 |
J20_0559B24: | 二 弘經寺 |
J20_0559B25: | 良肇は冏師の橫曾根の談所を相續し。ここに講肆 |
J20_0559B26: | を張り學徒を敎養せしが。應永二十一年橫曾根城主 |
J20_0559B27: | 羽生經貞。羽生城主羽生吉定等を檀主として。橫曾 |
J20_0559B28: | 根に接近せる飯沼の地に一寺を草剏す。これ弘經寺 |
J20_0559B29: | にして飯沼檀林の起原なり。良肇寂後法弟了曉入り |
J20_0559B30: | て飯沼を相續す。その門下に英傑多く輩出せり。而 |
J20_0559B31: | して周譽珠琳。勢譽愚底。肇譽訓公。曜譽酉冏等は |
J20_0559B32: | その最も著名なるものとす。珠琳は京都に赴き大譽 |
J20_0559B33: | の跡を襲ひて知恩院に住し。愚底。訓公は釋譽の跡 |
J20_0559B34: | を逐ひて三河に遊化し。又相次で知恩院に晋山せり。 |