浄土宗全書を検索する
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巻_頁段行 | 本文 |
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J20_0558A01: | り。外に三國佛祖傳集三卷を以て彼の作とするもの |
J20_0558A02: | あるも。後人の假託なること其内容によりて明なり。 |
J20_0558A03: | 總系譜が之に批評を加へずして。引用せるは無識も |
J20_0558A04: | 甚しと云はざるをえず。 |
J20_0558A05: | |
J20_0558A06: | 第四章 聖聰門下の繁興 |
J20_0558A07: | |
J20_0558A08: | 聖聰の會下には。高才逸足の士に乏しからず。就 |
J20_0558A09: | 中聰譽酉仰。慶譽了曉。大譽慶竺。釋譽存冏等は最も |
J20_0558A10: | 注意すべき人物なり。即ち酉仰は師席を董して其の |
J20_0558A11: | 第二世となり。所謂縁山一流の法燈をかかげ。了曉 |
J20_0558A12: | は良肇の後を受けて飯沼弘經寺を相續して其法孫繁 |
J20_0558A13: | 茂し。所謂飯沼一派の系統をひらき。慶竺は京都に赴 |
J20_0558A14: | き百萬遍並に知恩院に住職し。關東流が京畿に滋蔓 |
J20_0558A15: | すべき端を啓き。存冏は松平信光の請に應じて。三州 |
J20_0558A16: | 岩津信光明寺の開山と成りて。三河に於ける淨土宗 |
J20_0558A17: | の根柢を植えたるのみならず。德川氏と淨土宗との |
J20_0558B18: | 關係を結び次期に於て本宗が空前の大雄飛をなすべ |
J20_0558B19: | き素地を造れり。即ち此等の人人の行跡事業は。孰 |
J20_0558B20: | れものちに本宗が大に發展するに與りて力ありしこ |
J20_0558B21: | とは爭ふべからず。故に項を分ち少しく其概略を記 |
J20_0558B22: | すべし。 |
J20_0558B23: | 一 增上寺 |
J20_0558B24: | 酉仰の爲人は明ならず。彼が增上寺に住職せし |
J20_0558B25: | は。固より彼の人物が其適任なりしによるべきも。 |
J20_0558B26: | 彼が千葉氏の出にして聖聰の血族なりしことも。全 |
J20_0558B27: | く之に無關係の事實に非りしなるべし。酉仰に次ぎ |
J20_0558B28: | て音譽聖觀增上寺第三世と成る。聖觀學德ともに高 |
J20_0558B29: | く。之により縁山には學徒蝟集し。また兼て國歌を |
J20_0558B30: | 善くし。江戸城主太田道灌とも風月應酬の交友た |
J20_0558B31: | り。神奈川慶運寺。神戸藤之寺も其の開創するとこ |
J20_0558B32: | ろなりと云ふ。聖觀の門下經譽愚底。隆譽光冏。城 |
J20_0558B33: | 譽榮久あり。光冏は增上寺に住して第四世と成り。 |
J20_0558B34: | 而して愚底は下總國東葛飾郡小金城主高城(或は木) |